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ひとつは空に2

 バスを降りたアメリカが一目散に走り出したのはまだ降り続けている雨の所為だ、と言ったら、そんな言葉を信じるのは今目の前で重たい玄関のドアを開けて大きな緑の目を零れんばかりに見開いている、この屋敷の主だけだ。そして、乱雑に鳴らされたドアノッカーや連打されたチャイムから来訪者が誰かなど簡単に想像できそうなものなのに、イギリスは未だにアメリカの来訪に慣れない。

「ア、メ…リカ?」

「うん」

  外よりもこの家の中の方が雨の匂いが濃いのはどういう訳だろう。アメリカは少しだけ笑みを零すと、数週間ぶりに会う愛しい人にできるだけ穏やかに聞こえるように頷いてみせた。
 見開かれた緑の瞳には突然の来訪に対する驚きは伺えても、怯えや拒絶の色は浮かんでいない。そのことはアメリカを最も安堵させた。

「入れてくれないかい?少し、降られちゃってさ」

 だが、この時季のイギリスはやはり平素の彼とは違った。いつもなら顔を見るなり飛んでくる「お前、来るなら連絡しろってあれほど言ってるだろ!」というお決まりの説教もなければ、世話焼きの母親のように慌てて用意されるタオルもない。

「あ、あぁ、悪い……入れよ」

 滴が滴るほどとまではいかないが、しかし夏の雨に濡れているアメリカに、イギリスは一体何を見たのだろう。それでもかつて目の前で無情にこの扉を閉ざされた過去を思えば、彼の傷も少しは癒えてきているのだと思いたい。

「お前、来るのはいいけどウィークデーだぞ?俺が仕事だとか考えなかったのか?」

 呆れたように溜め息をついたイギリスに、アメリカは玄関を潜りながらわざとらしくない程度に明るい声で答えてやった。

「君んとこの秘書に聞いたら簡単に教えてくれたぞ。彼、イギリス人にしては親切でいいヤツだよね!」

「あいつは……!」

 この国で最も諜報員に向かない一族の血を引いている現イギリスの秘書は、真面目で申し分なく優秀だがどこか致命的にガードが甘いところがある。アメリカが彼と交換しているのが仕事用ではなくプライベートのアドレスであることは実はイギリスも知らない。

 部下の失態に痛む頭を押さえるように俯いたイギリスの、シャツの襟から覗いた首筋は真っ白だった。彼ご自慢の夏薔薇の盛りの季節なのに、一体どれだけ外に出ていなかったのだろうと思うとちくりと胸が痛む。シャツの上にはゆったりとしたサマーニットを身に纏っているが、シャツごと捲りあげられた袖の下の手首は関節の骨が目立っている。休暇中で楽な格好を選んでいるというよりも、それは痩せてしまった身体を隠しているように見えた。

 だが、容易く折れそうな頸の繊細なラインにアメリカはどうしようもなく上がる熱を自覚していた。髪もしばらく切っていないのか、彼の形の良いアメリカのお気に入りの耳が今日は隠されている。一度意識すると指先から掌までが少し硬い髪や汗にしっとりと濡れたこめかみ、髪を掻き揚げた時に触れる耳朶の感触などをまざまざと思い出して、乾いた喉の奥がぎゅうっと締まった。

「イギリス」

「ん?あぁ、茶淹れてやるから奥に行ってろよ」

 玄関の鍵を閉めるイギリスは振り返らずにそう言った。線の細いその背中は、戦傷を負っている時でさえいつも真っ直ぐで美しかったが、幼い頃港に置き去りにされた子供はその後姿がどこか苦手だった。

「ねえイギリス」

「荷物はそれだけか?とりあえず客間に置いといてやるから……と、その前にお前はタオルだな。場所は分かるだろ」

 ちゃんと拭けよと軽く笑ったイギリスは、アメリカが手にしていたデイパックを受け取ろうとして無防備に手を差し出した。早くも夏の陽に焼け始めたアメリカの腕に白い指が伸ばされる。
 ひやりとした指先の感触、そして乾いた髪の匂いを感じた瞬間―――気が付けばアメリカはイギリスを壁に縫い留めていた。

「ん……っっぅ」

 ドサリ、と荷物が床に落ちる音を耳は拾ったが、それを最後にアメリカの全神経はすべて目の前のイギリスを貪ることに注がれた。数週間ぶりにやっと触れた唇は以前よりも荒れている。それが可哀相で潤すように表面を舐めた。膚は乾いているのに、イギリスの体温は雨に濡れているアメリカよりもひんやりとして冷たい。剥き出しになっている手首を掴むと、腕の中の身体がびくり、と一層強張った。
 アメリカの突然の行為に驚愕で身体を固くしたイギリスは、ひどい抵抗もしないがアメリカを受け入れもしない。くちびる越しに名前を呼んでも白い瞼は頑なに閉じたままだ。肩の辺りにイギリスの自由になる右手が押し返そうとする弱い力を感じる。アメリカは手首を握ったまま力を緩めず、だが愛おしげにその骨ばった関節から手の甲までを指先で辿ると、そのまま強くイギリスの指に自分の手を絡めた。

「アメ、リ、カ……!」

 抗議を含んだその声さえも惜しくて、飲み込むように再びくちびるを合わせる。上唇を食むとイギリスが身体を震わせた。童顔の原因の一つとも言われている華奢な顎に手を掛けて頤を抉じ開けると、覆い被さるように抱き込んでアメリカはイギリスのなめらかな舌を味わった。
 体温は冷え切っていたが、それでもイギリスの口腔はそこだけ発熱したような温度を持っている。そのことにほっとしたアメリカはもっと奥を求めて更に深く重ね合わせる。唐突な熱の波に翻弄されるばかりだったイギリスは抗い切れないことを悟ったのか、少しずつ身体の力を抜くとやがて息継ぎをするようにキスに応えてくれるようになった。テキサスが近過ぎる二人の距離に時折軋みを上げたが、それを外す余裕は無かった。

「……ふっ…ぅ、ん……」

 吐息を逃がすようにくちびるをずらすと、水分を帯びた緑の瞳と目が合った。拘束したままだった手を離して大きな掌で耳にかかった硬い髪を掻き上げる。イギリスが目を伏せたのと同時に彼の腰を深く抱いて、少し濡れた睫毛ごと両の瞼にくちづけた。

 溺れた者が水面から顔を上げるように、イギリスは濡れた唇を喘がせて胸の中に酸素を求める。

「あ……、は…ぁっ、ア…メリカ、おまえ、何、いきなり……」

「イギリス……」

 薄い肩と一緒に上下する喉の動きがやけに扇情めいて見える。紅く色づいた眦から頬へキスを滑らせると、アメリカは綺麗にプレスされたシャツの合わせを乱暴に開いて、その首筋に顔を埋めてきつく吸い上げた。

「な……っ、つッ…ぅ!」

 息も碌に整わないうちに再び一方的に求められてイギリスは抗議の悲鳴を上げた。くっきりと浮いた鎖骨が掌の下でアメリカを拒もうと動いたが、逆に焼け付くような手の熱さに押さえつけられて切なげに悶えるしかできなかった。
 だがイギリスは渾身の力でアメリカのシャツの背中を握ると、荒い息の下から絶叫に近い声音で怒鳴った。

「……ざけんなっ、てめえ……!!ただヤりに来ただけかよ!!人を……っ馬鹿にすんのもいい加減にしろ!!」

「なっ……」

 詰る言葉にアメリカが一瞬手を止めた隙をついて、厚みのある肩を自分から引き剥がしたイギリスは、尚も眼光を緩めずいつか―――そう、いつの雨の日にか、戦場でアメリカと対峙した時のような鋭い、悲しげな眼差しで容赦なくアメリカを睨みつけた。

「この時季の……情けねぇ俺はさぞかし組み敷きやすいだろうよ。だけど俺は、お前の……慰みものじゃ、ない」

 こんな俺の気持ちは何も要らないっていうみたいなの、止めてくれ。

 激昂した感情を静めるように、次第に声から抑揚を削いでいったイギリスは、最後に苦しげにぽつりと告げる。押し返された肩に掛かった骨ばった指が力無く離れていこうとするのを視界に捉えて、アメリカははっと息を呑んで「違うんだ」と喘いだ。

「違う、違うんだイギリス、俺は君を……。君に、そんなつもりはなくて……」

 顔を逸らして俯いてしまったイギリスの頬に、アメリカはそっと掌を重ねる。避けられはしなかったがイギリスは辛そうに目を閉じたまま身じろぎもしなかった。

 こんな顔をさせる為に会いに来たのではなかった。こんな空しい思いを彼にさせる為に会いに来たはずが無かった。
 待つばかりが嫌で彼の箱庭を飛び出して行ったはずなのに、自分の足で海を渡れるようになってからの方が余程彼を苦しめている気がする。そうではなくて、自分がしたかったことは力任せに彼を思い通りにすることではなくて、あの頃も今もただ自分は

「俺は、俺はイギリス……ただ君に会いたかったんだ。会いたくて、ここに来たんだ」

 独立後、血反吐を吐く思いで手に入れた自由を携えて、生まれて初めて大陸の外へイギリスを訪ねたアメリカに、彼から寄こされたのは無関心な視線と冷え切った拒絶だけだった。パリでのあの日以来、アメリカがイギリスの気持ちを、心を求めなかったことなどただの一日も無い。

「俺が君の気持を要らないなんてことは絶対にないんだ……」

 頬に添えた手で顔を上げてくれるよう懇願すると、瞼の内から緑の瞳がゆるゆると現れる。愛おしむように頬のラインをそっと撫でて、アメリカは額に謝罪のくちづけを落とした。

「でも俺はもう君にただの綺麗事も言えない」

「アメリカ……」

「そうだよ、俺は君の言う通り、君を抱きに来たんだ。……君と愛し合いに来た」

 空色の瞳は真っ直ぐに腕の中の愛しい人を射抜いて、いっそ告解のように嘘偽り無い情欲をありのままにぶつける。イギリスは黙ったままただそれをじっと受け止めて、そして目を閉じると「勝手だな」と呟いた。

「ちくしょう……。お前は俺がこの数日間、どんな最低な気持ちでいたか知りもしねぇくせに」

「はは、当てて見せようか?どうせこの世の終わりみたいな顔して俺のこと罵ってたんだろ」

 独立記念日前後の君はいつもそうだ。切なさを滲ませながら軽い口調で言ったアメリカの言葉をイギリスは否定しなかった。

「ああそうだよ。当日は特に最悪だった。寝ても覚めても恩知らずなクソガキの悪夢しか見やしねぇ。こんな酷い気持ちにさせるお前には会いたくなかった。だから今年は行かなかった」

 瞑ったままの、青褪めた瞼が微かに震える。アメリカは何も言わずゆっくりと繰り返しイギリスの髪を梳いた。イギリスはそれを拒まない。沈黙はほんの僅か。イギリスの唇が「でも」と小さく動く。

「でも、どうしたって浮かんでくるのはお前の顔ばかりだ。お前に二度と会わずに済むのなら今度こそ撃ち殺してやろうと思うのに……夢の中でさえ、俺は結局一度も撃てなかった。お前に……二度と会えなくなると思ったらできなかった」

「イギリス……」

「会いたかったよ、アメリカ」

 そう言ってイギリスはアメリカの目を正面からきちんと見ながら、今日、ほとんど初めてはっきりと―――泣き笑いのように、微笑った。

「お前は俺が世界で一番会いたくなくて……なのに会いたくてどうしようもない男だ」

 どこか途方に暮れたような笑みを浮かべるイギリスに、アメリカもくしゃりと笑い返す。

「……君だって随分と勝手だ」

「は、お互い様だろ」

 視線を交わしたままもう一度笑うと、イギリスはするりと両腕をアメリカの首へ回す。アメリカも細い背中を柔らかく抱いて、そっと深く、くちびるを重ね合わせた。



 ここじゃ嫌だ、寝室に。そう耳元で囁かれては聞かない訳にはいかない。屋敷で最も奥まった位置にあるイギリスの主寝室への、その僅かな距離が今は憎かったが、アメリカは逸る気持ちを捩じ伏せてイギリスの肩を抱く。

「あ」

「な、なに?」

 突然何事かを思い出したというようにイギリスが声を上げたのに、アメリカは過剰に反応してしまう。これ以上のお預けは聞けないんだぞ、と恨みがましげに言うと、一瞬きょとんとしたイギリスは「ばーか」と笑ってアメリカの濡れた髪を引っ張った。

「タオルだよ。お前、濡れてて冷たい」

 然程濡れていないつもりだったが、見るとイギリスの服にもうっすらと水分が移ってしまっている。一分一秒でも惜しいアメリカはいらないよと告げたが、「そういうわけにはいかないだろ」と腕の中の恋人はつれない。すい、と離れていく身体を思わず抱き止めると緑の瞳に怪訝そうに見上げられた。

「なんだよ?」

 君は相変わらず男心が、とか、正直もう限界なんだけど、とか文句は山のように浮かんだが、結局そのどれとも違う言葉をアメリカは慎重に選んだ。

「君は……今でも、雨の日の俺は嫌いかい?」

 口に出した瞬間、その言葉の重みに思いがけず動揺しかけたのは自分の方だった。だがイギリスはほんの僅か息を詰めた後、困ったように笑ってアメリカの腕を撫でた。

「そんなの今更だろ。雨が嫌とか言ってたら……俺んちで会えないじゃねえか」

 雨と霧の国の人の、その言い方があんまりにも可愛く聞こえて、アメリカはイギリスの悲鳴を無視して力一杯抱き締めると、その唇に盛大な音をたててキスをした。

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