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「忘れ物ねえか?」

 帰るまでにもう一度チェックしておけよ、との言葉に「君じゃあるまいし」と返したら、返事の代わりにマーマイトの瓶が飛んできた。思わずキャッチしてしまい、その恐ろしい味を思い出して思わず悲鳴を上げる。黄色い蓋に茶色の瓶で出来ている手榴弾の始末は誓ってヒーローの仕事でも爆破物処理班の仕事でもない。殺傷能力は等しいとしても。

 アメリカの情けない悲鳴に機嫌を良くしてげらげらと笑った恋人は「ほら、朝飯できちまう前に見て来いよ」と言って、流れるような仕種でスプーンの柄を使い、器用に紅茶の缶を開けた。ステンレスでない本物の銀のスプーンはアメリカがこの屋敷への出入りを許されるようになった当時から既に彼の手元にあったように思う。イギリスはダージリンでもアッサムでも―――それこそどんな種類の茶葉でもこのスプーンで計量する。きちんと手入れをされていても純銀故の劣化や疵がそこかしこに見られるそれは、だがイギリスの手の中に収まると不思議なくらい神聖な、何かの魔法の道具のように見えるのだ。

 いつまでもキッチンを離れないアメリカにイギリスは「なんだよ?」と少しだけくすぐったそうに笑う。

「いや、今の君とさっきまで焦げたフライパンと格闘していた君がどうしても同一人物に見えなくて―――アウチ!」

 魔法の道具訂正、飛び道具と化したスプーンが正確にアメリカの額に命中する。コンロの火を止めたイギリスはケトルを取り上げると「熱湯で蒸らされる前に行って来い」と爽やかな朝にぴったりな、おどろおどろしい声で告げた。

 赤くなった額を摩りながらアメリカが向かうのはイギリスの寝室だ。この二日間、アメリカが用意された客間を使うことはとうとう一度もなかった。

 イギリスがしつこいくらいに荷物を確認しておけと繰り返したのは、フライトの時間まであまり間がないからだ。独立記念日直後に休暇を貰うのはアメリカの常であるが、今年は東から西へ予定外の大移動をしたために、些か日程をオーバーしてしまったのだ。
 とうとう官邸から入った呼び出しのメールにアメリカよりもずっと年上の恋人は冷たく「早く帰れ」と言ってのけたが、その時の彼の方がずっと寂しげな表情をしていたこと、そして実は彼自身こそがアメリカが訪ねて来てから自身の休暇の延長申請をしていたことを、アメリカは彼の優秀な秘書からこっそりメールで聞いて知っている。朝は大抵ティーバッグで済ませてしまうイギリスがとっておきのリーフを持ち出したのも、彼なりにアメリカの帰国を惜しんでくれているからだろう。
 いつだって―――待つだけでなく、自分から会いに来ることが出来るようになってからでも、アメリカはイギリスとの別れの瞬間が苦手だ。だったらせめて少しでも明るく……またすぐに会えると思っていたい。そのためにアメリカは彼の懐を飛び出し、今のアメリカになったのだから。

 窓の開けられた夏の朝の寝室には、もうあの水の底のような気配はどこにも見つけられない。風に翻るカーテンの下、既にベッドメイキングの施された寝台の上にはきちんと洗われてアイロン掛けされたシャツが畳まれている。ここに来た当日、アメリカがジャケット代わりに羽織って来たものだ。
 それに袖を通しながら、アメリカはベッドサイドの周辺にきょろきょろと視線を巡らす。携帯はジーンズの中だし、キーリングもチェーンに通してある。財布やパスポートも確認して腕時計を嵌めればもうそれで終わりだ。

 イギリスの最も個人的なその部屋は、当然主の気配が色濃く残っている。家族でも身内でもなく、ここに入ることを許された他人は……願わくば自分だけだといい。
 一瞬だけ彼の懐に抱かれた心地良さを思い出して、アメリカは置きっ放しになっていたデイパックを取り上げる。――――自分の場所に帰る為に。

 その前に朝食だ。どれほど不出来で不格好で焦げくさかろうと、彼自ら振る舞う朝食に預かれるものなど、この世界にいくらもいやしない。そしてその稀少で奇特な権利をアメリカは永遠に手離すつもりなどないのだから。

 階下からイギリスの呼ぶ声がして「今行くから!」と叫ぶと、最後にもう一度部屋の中を振り返ったアメリカはデイパックを担ぎ上げて―――ふと、自分の耳がかさり、とかすかな音を拾ったことに気が付いた。
 明らかに自分の胸元付近から聞こえた気がして手にしていたデイパックを見てみるが、とくに変わったところは見つけられない。だったらここか?と空いている右手で着ているシャツの胸ポケットを上から叩いてみると、果たして勘は見事に当たり、右側のポケットから今度はもっとはっきりと何かがかさりと擦れる音が聞こえた。掌にはごくごく小さくて硬い感触も触れる。

 首を傾げながら中に手をいれようとして、そこにあの緑のビー玉を入れていたことを思い出した。だが、このシャツは雨に濡れてしまったためにイギリスが他のものと一緒に洗濯をしてくれたはずである。
 これだけ出し忘れたのかな?と不思議に思ったが、それが噛み終わったガムの残骸などでなくてよかったと再び手を入れたアメリカの、その指先が摘み上げたのは、確かにここに入っていたはずの緑色のガラス玉ではなく―――透明なセロファンに包まれた、ブルーのソーダキャンディだった。

 自分の瞳と同じ色をしたキャンディを目の前に掲げて、思わずまじまじと見つめる。一体いつ、どうやってあのガラス玉がキャンディに化けたのだろう?試しにもう一度ポケットを探ったが、やはりそこにはもう何も入ってはいない。

 思考と身体が固まったのはほんの一瞬だけ。アメリカは口の中にブルーのそれを放り込むと、飛び出さんばかりの勢いで階段を駆け降りた。


「おい、アメリカ、お前何やってたんだ。冷めちまったって文句言っても淹れなおしてやらねえぞ」

 テーブルの上には二人分の朝食と湯気のたつ紅茶のカップ。イギリスはアメリカがキッチンに入って来たのを見てトースターにパンをセットする。その手がジャムの瓶と、そしてあの恐ろしいマーマイトに触れる前に、アメリカはイギリスの肩を掴んで自分の方に向かせると、笑みを刻んだ唇のまま驚きの声をあげるイギリスにキスをした。

 いきなりのことに目を見開いたイギリスだが、アメリカの仕掛けたキスから甘い人工のソーダの味がすることに気が付くと、唇を合わせたまま楽しげに……悪戯っぽく笑った。

 二人の口の間でキャンディが溶け切るまで、朝食はしばしお預けとなった。
 英国紳士ご自慢の紅茶もすっかり冷めてしまったが、アメリカは勿論、イギリスも一言も文句を言わなかった。

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