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やがて朝が

 広大な草原は物言わぬ兵士と瓦礫で埋め尽された。焼き払われ焦土と化した土地では、午後の風が吹いてももう葉を揺らす草木もない。いつか彼が美しいと言った大地、その金色の夕日の下で夜襲の準備をした。
 先頃採択された独立宣言により、国民の士気は一層の高揚をみせた。しかし、それはイギリス本国との決定的な決別を宣言したにすぎない。戦いがこれからさらに激化することは誰の目にも明らかだった。

 長い戦いはアメリカの心を少しずつ侵食していった。国であることを宣言して一番最初に知ったことは、己の存在は国民の血で購われているのだということだった。
 今日も粗末な麻の袋に入れられた兵士の体が土の中に埋められていく。微かな腐敗の臭いが漂い始めた簡素な埋葬地では、哀しみの声とともに本国への憎悪の声が膨れ上がる。
 まだ少年の域をやっと脱したばかりの若いアメリカは、重い頸を上げて周囲を見回した。愛する国民、同志達一人一人の顔を。彼等は誰一人幸せそうではなかった。

 傷だらけの痩躯を衣服の下に隠して、それでも自分の前では平然と笑っていたあの人の顔を今になって思い出す。あの頃、自分を守ってくれていたのは『英国民』だったが、この戦争で自分の為に血を流しているのはもはや『アメリカ合衆国』の民だった。自由を得ようと湧き起る国民の声の裏に、愛する家族を失ってすすり泣く者達の声も確かに聞こえる。今までは聞こえなかった哀切の嘆きが耳に届くようになったのは、かつてそれをアメリカの代りに聞いていたのがイギリスだったからだ。

 疲弊と悲しみだけが澱のように積もっていく夜に、アメリカはただひたすらかの宣言文を食いしばった唇の中で、掻き毟った胸の奥で必死に繰り返した。国民の声と、愛しい人への想いで割れそうだった脆弱な自分の心を守るために。

 そんな夜がどれだけ続いた後だっただろう、もう身体が深い眠りなどとうに忘れたかけた頃、浅い意識の中でアメリカは短い夢を見た。



 子供用の白い清潔なベッド。眠る前のお祈りの時間だった。
 子供の小さな額に自分の額を合わせると、イギリスの緑の瞳が白い瞼の中に消える。文字も綴れなかった幼い頃、こうしてイギリスと額を合わせ、彼が一節ずつ唱える簡単な祈りの言葉を、アメリカは彼の後についてただただ繰り返した。

(お祈りの意味よりも、彼の声の響きを追う方が大事だった。)

 どこか遠くからその夢を見ていたアメリカは笑った。こんな夜に思い出すには相応しくない、幸福な夜の記憶だった。それでも確かに泣きたいような幸福な気持ちに包まれてアメリカはあともう少しだけ微睡むことを許して欲しいと思った。

 だが、耳を欹てて懐かしい声を追ううちに、そのイギリスの唱える言葉が聖なる祈りの言葉でないことに気が付いた。

『アメリカ』

 小さな弟の髪をなでる手は優しく、不器用で、そして微かに震えていた。

『俺達『国』という存在は、人ならば当たり前に持っているはずのものを何一つ持つことが出来ない。国政の前には何一つ思い通りにはならない。国家の総意の下では何一つ許されることはない』

『いつか、お前も国民の声を聞くようになるだろう。それは紛れもなくお前自身の声だ。だが、時にその声に苦しめられることもある。呪縛と感じることもある。絶望することも――――』

 彼の紡ぐ言葉の意味が解からずに、もはやとろとろと眠りの世界に船を漕ぎ出した子供は、だが兄の声に微かに滲む悲しみの気配に気付いて重たい瞼をなんとか押し上げようとした。だが、それは瞼に羽のように落とされた口付けによりあっけなく遮られる。意識を羽根布団に吸い取られながら、アメリカの世界は愛しい人の声だけに包まれた。

『……ならばせめて自分の心には背くな。自分の想いを何一つ見落とすな。それが遂げられることがなくても、その想いの存在は、いつか必ずお前を絶望から救うだろうから』



 意識が掬い上げられるように、アメリカは明け方にふと目を覚ました。連日の戦いで身体は休息を欲していたが、磨り減りすぎた神経がそうさせるのか、再び眠りに戻る事は出来なかった。

 アメリカは自嘲気味に哂うと、野営用の粗末な毛布の中をそっと抜け出した。外には見張り番がいるはずだったが、夜明け間もない時間ではまだ誰も起き出した様子は無く、静かな、いっそ静謐といっていいほどの朝だった。

 外の空気が吸いたいと思った。周囲に眠る人々を起こさないよう、薄暗い仮設小屋の中を出来るだけ足音を忍ばせて入り口へ向かった。隙間から薄く光の漏れる木戸をそっと開き―――アメリカは息を呑んだ。

 そこには燃えるような紅い朝焼けが、空を一面に覆い尽くしていた。

 目を見開いたまま、半ば吸い寄せられるように外へ踏み出した。疲れた身体を引き摺りながら、まだ眠りから覚めぬ夜営地を何かに取り憑かれたように歩いた。そして、自陣の境界まで来て、ようやくそこで足を止める。目の前に広がる荒野。その向こうにはここからは見えぬ、英国軍の軍営地があるはずだった。
 戦火で焼かれた焦土を染める朝焼けは、恐ろしいほど赤かった。このまま空を焼いてしまうのではないかと思えるほどの紅蓮の光を、アメリカは痛みにひりつく瞳でただ一人見上げた。

(美しいな、アメリカ)

 愛しい声が耳元で告げた。

(見てみろアメリカ。お前の国は、お前はこんなにも美しい。よく見ろ、これがお前だ。この美しい大地がお前そのものなんだ)

 恐ろしく―――だが神々しいほど美しい暁の空。あの日、彼の腕の中で見上げたのと全く同じの。

「……イギリス」

 紅い空が滲む。彼が美しいと言った空が。東からの風は頬の涙を冷やして荒野を通り過ぎた。

「イギリス、イギリス……!」

(お前が好きだよ)

 まだ大丈夫だ。まだ自分は大丈夫。だって空はこんなにも美しい。俺の空は、俺の国は、イギリスが好きだと言ったこの大地は、まだこんなにも美しい。

(お前を愛してるよ、アメリカ)

「俺も……俺も、愛してる。君を愛してる」

 ぬくもりを振り払って銃を握ったこの掌の中に、最後に一つだけ残ったのは俺の心。

 今は絶望に包まれていても、長く暗い闇から抜け出せなくても、やがて、こうして朝が訪れるように。
 その日まで俺は何度でも君の言葉を繰り返そう。どれほど形を変えることになっても、君が好きだと言った、美しいものが俺の中にあるのなら、俺はそれを守り続けよう。
 いつか再びそれを君とわかち合えると信じて。

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