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18

 まだ下ろして間もない新しいヒールがカツンと大理石の床を叩く。すっかり場の雰囲気に呑まれてきょろきょろと落ち着きなく視線を彷徨わせていると、「こっちよ、セーシェルちゃん」とハンガリーが手招きをしてくれた。

 クロークに手荷物を預けると、セーシェル達は会場係に促されるままにウェイティング・ルームへと通された。(ウェイティング・ルームとは言っても、そこはちょっとしたパーティーが開けてしまいそうなくらい大きな部屋である。さすがW学園の大ホールに併設されているだけの規模があった。)参加者は皆そこでウェルカム・ドリンクを受け取ると、準備の出来た者からめいめいに会場である大ホールへと移動していく。中には友人とここで待ち合わせをしているらしい者達も大勢いた。
 キラキラと着飾った学生たちにぼんやり見とれていると、いつの間にかホール・ボーイから飲み物を受け取っていたハンガリーが側に戻ってきた。「はい」と笑顔でグラスを渡される。慌てて礼を言って、セーシェルは真っ白いドレスに気をつけながらグラスに口を付けた。冷たいものが入ると火照っていた体がほっと落ち着く。そんなセーシェルを見てハンガリーはそんなに緊張しなくても大丈夫よ、と花のように笑った。

「そんなこと言ったってハンガリーさぁん……。ダンスが始まるまであと一時間もないんですよ」

 恐ろしさのあまりぶんぶんと首を振ったセーシェルだが、あんまり動くと髪が崩れちゃうわよ、とハンガリーに笑われてピタリと動きを止める。せっかく朝からハンガリーがセットしてくれたのだ。本番前から台無しにしてしまうわけにはいかない。代りにグラスを握りしめてう〜っと泣き声交じりに唸った。

「大丈夫よ、これまであんなに練習してきたじゃない。セーシェルちゃんならきっと上手くいくわ」

 私が保証するからとハンガリーは励ましてくれたが、セーシェルはそれでもまだ不安が抜けきらない様子で、やたらと煌びやかな頭上のシャンデリアを恨みがましく眺めた。セーシェルの浮かない気持ちなどまるで知らん顔で、精緻なカットを施されたクリスタルが星を降らせるように瞬いている。これらは昨日フランスが自ら陣頭指揮を執って設置させたものだ。会場装飾のこととなると、彼の本気は凄まじい。

 ふと、フランスさんやイギリスさんは昨日何時まで準備していたんだろうとセーシェルは思った。セーシェル自身は生徒会役員であるにも拘らず、日が落ちる頃にはもう寮に引き揚げてよいとのお達しが出たのだった。両人曰く、「女は前の晩からやることがあるだろう」ということだそうだ。(残念ながらセーシェルにはパーティーに向けて肌の手入れをしたり爪を塗ったりという感覚がなかったので、その気遣いの意図もよく分かってはいなかったのだが。)
 とにかく早く帰れるならありがたいと、「じゃあ、明日は何時集合ですか?」と尋ねれば、これもイギリス、フランス共に口を揃えて「パーティーが始まる定刻までに来ればいい」とのことだった。これも女性であるセーシェルの身支度を考慮してのことだったのだが、セーシェル本人は内心「明日のパーティーは大雪でも降るんじゃ…」と失礼な心配をしただけだった。

 幸いにも、その晩は女子寮中が明日の本番に向けて繰り広げていたスキンケア合戦にセーシェルも問答無用で巻き込まれた。皆が大量に用意していたパックやらトリートメントやらを散々試されたおかげで、朝起きた時に自分の肌があんまりにツヤツヤのピカピカだったので驚いたくらいである。
 しかし、聞くところによると会場ではかなり遅くまで電気が点いていたらしい。洒落者のフランスなどは日頃から寝不足はお肌の大敵、などと嘯いて生徒会の残業から逃げ回っているのだが、果たして彼等は昨夜きちんと帰って眠れたのだろうか。

 とにかく、今日のダンスのこともあるので早目にフランスさん達と合流しないといけないな、とセーシェルは思った。彼等はきっともう会場入りしているはずだ。ハンガリーにもそう告げると、「じゃあ私たちもそろそろ移動しましょうか」と彼女は空になったセーシェルのグラスをさり気無く回収して、近くのボーイを呼びとめた。彼女にはこの間からエスコートされっぱなしである。以前から思っていたが、ハンガリーのエスコート振りは本当に並みの男性以上に見事だ。

 本来ならこういった役目は男性が担うものであり、そもそもパーティーは男女同伴での参加が普通なのだが、今日のダンスパーティーはパートナー固定制ではないため、その辺りの作法はかなりフランクになっていた。中にはリヒテンシュタインのように寮の玄関に男子生徒が迎えに来ているような女性もいたが(セーシェルは初めて見たが、リヒテンシュタインを迎えに来たのは彼女のお兄さんという話だ。誇り高き永世中立国である彼はなかなか学園に出て来ないので、セーシェルは顔を知らなかった。)、大部分の生徒がセーシェルやハンガリーと同じように友人同士で会場入りしている者が殆どだ。
 しかし、薔薇の蕾のようなドレスに身を包んだハンガリーのような女性にこそ、誰か似合いの男性がきっちりとエスコートに就くのが相応しい。彼女の美しさには周囲からも憧憬の眼差しが集まっている。現に今ハンガリーから空いたグラスを受け取ったボーイの青年も、明らかに彼女に見惚れていた。今日ハンガリーさんと踊れる男の人は幸せだろうなあ、とセーシェルもうんうんと頷いたその時、後方から特徴のある笑い方とともに、ある男子生徒がこちらへ向かって歩いてきた。

「おいおいなんだよハンガリー!なに女装してんだよ!らっしくねーったらないぜー」

 周辺に響き渡るような大きな声でぎょっとするようなことを言った男子生徒にセーシェルは見覚えがあった。よく放課後に水泳部の活動場所のあたりで見かける、銀色の髪をした青年だ。ちなみに彼は朝の生徒会の風紀チェックでも度々引っ掛かる常習犯なので、顔だけはやたらとセーシェルの記憶にも残っていた。どうやらイギリスやフランスとは古い馴染みのようなのだが、名前はなんと言っただろうか。

「お前だったらそんなビラビラしたやつよりも男物の方が似合うんじゃねーか?よかったら俺様の貸してやってもいいんだぜ」

 ケセセセ、と何が可笑しいのか踏ん反り返って高笑いをするその青年に、ハンガリーは「あいにくそういう趣味はありませんので」と唇の端をひくつかせた。どうやら二人は知り合いのようだ。
 しかし、何よりセーシェルが吃驚したのは青年がハンガリーに告げた言葉の内容だ。誰が見ても見目麗しいとしか表現しようのないハンガリーに、彼が先刻発した言葉は殆ど言い掛かりにも等しい。かなり遠慮の無い関係でもなけば、あんな好きな子いじめみたいなことは言えないだろう。
 セーシェルが呆気に取られている間にも、その青年はなんやかやとハンガリーにちょっかいを出している。いつもの着崩した制服姿とは違って、濃紺の礼装を身につけている今日の彼は黙っていればはっと目を引くような風貌をしているのに、なんだかガキ大将じみた言動が非常に残念な印象を与えてしまう。なんというかそう、実に残念だ。
 ハンガリーが黙っているのをいいことに、彼は更に調子づいたようだった。「ガキの頃からお前はあのお坊ちゃんなんかよりもよっぽど男らしかったからなぁ。急にしおらしくなちまった時はなんの病気かと……」とペラペラと喋り続けている。完全に自分の世界に入ってしまった彼は、その時ハンガリーが先程呼び止めたホール・ボーイの青年に微笑みかけ、何故か空の銀の盆を借り受けたのにまったく気付いていなかった。

「ハンガリーさん……?」

 首を傾げたセーシェルにもハンガリーは軽やかな笑みで返し、手にした銀の盆を片手に彼―――プロイセンに歩み寄った。

「でもまあ今はよ!馬子にも衣装っていうかそれなりに見られなくもな……って、お…おい、何する気なんだよ!おいちょっと待て、待てって待て…待てって言ってるだろおおおおおお!」


*****

 ぱんぱん、と手袋に付いた埃を払うように手を叩いたハンガリーは、清々しい笑顔でくるりとセーシェルを振り返った。

「さっ、行きましょうかセーシェルちゃん」

「は、はあ……。あ、あの、あの人あのままでいいんですか?」

 セーシェルの指差す先、ハンガリーの背後では件の銀髪の青年が頭に銀盆をめり込ませたまま床に沈没している。ぴくぴくと痙攣しているので、多分生きてはいるのだろう……多分。

「いいのいいの。それより早く会場に行きましょう。フランスさん達きっと待ってるわよ」

 オーストリアさんはまだ来てないといいんだけど、と何事も無かったかのように会場に向かうハンガリーに続いてセーシェルもその場を後にした。扉をくぐる時にちらっと後ろを振り返ってみたが、相変わらず豪華な絨毯の上に懐いたままの青年は周りからも華麗にスル―されていた。なんだか不憫な人だ。

「あ、そうだ、早くフランスさん探さないと」

 潰れた青年はちょっと邪魔かもしれないが、ウェイティング・ルームは広さだけはあるので問題ないだろう。セーシェルはそう結論付けると前を行くハンガリーの背中を追った。鬼の会長様曰く、この学園の校則は「廊下は走らない」、「皆仲良く」、そして最後は「弱肉強食」なのである。

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