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 後にも先にも、イギリスが直接手ほどきをしたのはアメリカだけだ。自分に長く付き従い、英連邦の筆頭の位置を占める(その割には何故か影が薄いのだが)カナダにさえ教師をつけてやっただけなのだ。

(思えば、カナダには気の毒なことをした)

 アメリカの独立後もなおイギリスを兄と慕い、以後、最も近しい弟として存在したカナダだったが、イギリスが彼をアメリカのように特別扱いすることは終ぞなかった。かの忌々しい戦争の後、イギリスは植民地政策をこれまでの甘いものから大きく転換した。カナダを家族というカテゴリから他の植民地たちと同列に移そうとしたのもこの頃からだ。彼等のそのよく似通った面差しの所為ではない。カナダが自分を家族と慕えば慕ってくれるほど、かつて三人で共に過ごした時間を――――そこに当たり前のように居たもう一人のことを、生々しい痛みとともに思い出してしまうのが辛かった。時間にしてほんの十数年。ままごとめいた家族のまやかしの温もりは、世界の覇者となろうとするイギリスにはまったく不要なものだった。

 ヨーロッパ諸国との鍔迫り合い(主にあのクソ髭と)を繰り返しながら、インドを始めとする南アジアに進出し、アフリカを押さえ、オセアニアまで手を伸ばし、ついには極東まで掌中にした。この間、イギリスは何人もの植民地を得たが、その中の誰一人として特別扱いはしなかった。当然、ダンスの個人教授など言うに及ばない。(何故か彼等―――特に香港やオーストラリアなどからは夜会の後に個人指導をしてくれと散々強請られた。そんなに上手くなりたいのかと、更に上級の教師を手配してやったら絶望的な顔で文句を言われた。どうしてなのかイギリスにはまったくもって理由が分からない。)

 思わず唇から零れた溜め息が思いの外大きく響いて、イギリスはそんな自分に苦笑した。植民地経営に関してはそれこそ世界随一である自負があるが、国同士の個人的な付き合いとなると何故か勝手が違うことが多かった気がする。愛情を知らずに育った嫌われ者のイングランドは、長じてからも他人に上手く情を手渡すことが出来なかった。自分が良かれと思ってしたことは的を外れていることも少なくなかった。例えば今回のセーシェルやかつての香港のように、イギリスが誂えてやった夜会服を喜んだ者もいたが、有り難迷惑だと嫌悪した者もいた。その最初の一人となったアメリカは、受け取った時はとまどいながらも喜んでいるように見えたものだが、それは当時最愛の弟に夢中だったイギリスの錯覚でしかなかったようだ。事実、それ以後、アメリカがあの服に袖を通すところをイギリスはただの一度も見たことがない。

(それどころかあの野郎、仮にも紳士の礼装を簡略化しやがって)

 現在では国賓級の晩餐会にも当たり前のように着用されるディナー・ジャケット―――所謂タキシードだが、元々は寛ぐことを目的に作られたカジュアル・ウェアなのだ。それを準礼装の地位にまで引き上げてしまったのが言わずもがな、アメリカの国民だ。
 ダンスだってそうだ。世界のスタンダードはイギリスを中心に発達したイングリッシュ・スタイルだが、アメリカはこれも勝手に独自の改良を加えてアメリカン・スタイルを生み出した。そんなに俺の事が嫌いかと思い知らされるような気持ちになる。あの頃は、身長はもうイギリスより大きかったが、それでも素直に稽古をしていたのに。

 そもそもイギリスが弟にダンスの稽古をつけてやらなくてはと思ったのは、彼の背が自分を越したからだった。国として多忙だったイギリスがやっとの思いで大西洋を渡った時、港で出迎えてくれた弟の目線はいつの間にか自分よりも上になっていた。イギリスも欧州の中では急速に成長した国ではあるが、弟のそのあまりの成長の速さには、本人を目の前にしばし言葉を失ったほどだった。
 それまでずっと小さな子供だと思っていた少年は、いつの間にか青年の域に差し掛かろうとしていた。最愛の弟の成長は何よりイギリス自身が望んだことだったが、あの無邪気で愛らしかった小さな子供が知らない間に掌からするりと消えていなくなってしまったようで、イギリスは妙な喪失感に襲われたものだ。しかし、背が高くなっても、アメリカの瞳は相変わらず兄を慕う気持ちを隠さなかったので、そこにかつての子供の面影を見つけてはイギリスは安堵した。
 だが、中身こそはまだ未熟だが、外見が育ってしまった以上、今度はその見てくれの年齢にあった教育をしてやらなければならない。幸いにも現地にいた本国の人間達は新大陸の養育には熱心だったらしく、イギリスの不在の間にもアメリカはきちんと必要な教育を受けていた。もっとも、与えられるだけの教育に反発し、頻繁に新大陸の国民と交流を持ち出すようになったのもこの頃からなのだが、それをお上品な本国の教育係は見抜けなかった。

 ともかく、外見がほぼ青年に近づきつつあるアメリカを前にして、イギリスは本格的に弟の社交界のデビューを考えなくてはならなくなった。食事のマナーや礼儀作法は幼少の頃から折りに触れて叩き込んできたが、夜会ともなると踊れない事には始まらない。アメリカ本人に確認すると、さすがにダンスはまだ誰にも習ったことがないという返答が返ってきた。そしてその時のイギリスには、自分以外の他の誰かにダンスの指導を任せるという選択肢は微塵も存在していなかった。
 運動神経が良く、もともと飲み込みの早いアメリカはイギリスにとって優秀な生徒だった。本国から離れても尚多忙を極め、日中は殆ど屋敷に居る事のなかったイギリスが稽古の為に充分な時間を取れてやったかといえばそれは首を横に振らざるを得ないのだが、その分、アメリカは少ない時間の中でかなり一生懸命努力をしていた。イギリスは指導の都合で女性のパートを踊ったが、最終的にアメリカのリードは贔屓目抜きにしてもなかなかの腕前になったと思う。それでも他人と至近距離で踊ることに慣れていないアメリカは思春期特有の照れくささからだろうか、稽古中ずっと、らしくなく緊張していた。家族同然の、男の自分と踊ってそれなのだから、本番でレディを誘う時にどうするんだと、イギリスはよく彼を揶揄ったものだ。

 ただ歴史が示す通り、イギリスがアメリカを弟として夜会に連れて行くことは実現しなかった。独立後は彼の声を聞くことも、姿さえも視界に入れるのが苦痛だった。そんな時期が随分長く続いた所為で、イギリスが実際にアメリカの踊る姿を初めて見たのは実はかなり最近になってからである。

 一番最初はかのロンドン万博の時だった。世界で最も繁栄を極めた大都市には各国の賓客が連日のように訪れ、イギリスも彼等を持て成すべく表に出ていた。アメリカの一団もその一つだった。
 当時のアメリカは破竹の勢いで北米大陸の領土を拡大していたが、ヨーロッパ諸国から見ればただの田舎者の新興国にすぎなかった。諸外国を歓迎する為の晩餐会の席上で、まともな欧州式の振る舞いの出来る者はアメリカ使節団の中にはほぼいなかった。国交は復活していても、個人としては顔を見るのも厭っていたイギリスは、そんな彼等に正面から冷笑を浴びせた。世界の覇者たる大英帝国には当然のごとくその権利があった。

 だが、その中で一番歳若く見える青年―――アメリカ合衆国本人はそうではなかった。洗練された、とは誇張のしすぎであるが、それでもイギリスの目から見てギリギリ及第点に耐えるだけの振る舞いを、彼はして見せた。
 周囲の見る目が明らかに変わったのは、アメリカがダンスを披露した時だった。お情けでパートナーを引き受けた女性は、曲が終わる頃にはすっかり若いアメリカに夢中になっていた。それほど彼のダンスは見事だった。残念ながら彼以外のアメリカ人はダンスはあまり達者でなかったので、国全体の評価としてはアメリカ一人が上手かったところで然程の効果はなかったのだが、少なくとも、それ以来イギリスは恩知らずの若造の見方を徐々に変えていくことになった。

 踊れない男は役に立たない。そこが戦場でも議場でも。

 稽古中、散々言い聞かせた言葉の意味を、イギリスがアメリカに教える機会は最後まで無かった。だが独立し一国となったアメリカは、イギリスが教えずともその言葉の真意を自分なりに悟り、敵ばかりの世界で必死に歯を食いしばって立っていた。イギリスの目にはそう見えた。イギリスがかつて手ほどきをした、背ばかりが伸びた世間知らずの若者はそこにはいなかった。そしてイギリス自身も、あの独立戦争から既に百年近くの歳月が経っていたということに、今更のように気付いたのである。

 その後、国内で起こった内戦の影響で、アメリカが欧州の社交界に出てくることはぱたりと途絶えた。後から聞いた話では、日本の迎賓館での夜会には時折顔を出していたらしい。同時期にそこに居たはずのイギリスはアメリカとは一度も顔を合わせることはなかったが、日本がそう教えてくれた。日本はアメリカが踊る場面を見たらしく、遠回しにイギリスにダンスの指南を請うてきたことがある。良い教師を紹介してくれということなのだと思ってそのように手配したのだが、不思議と日本は残念そうな表情をしていた。(それでもきちんと礼を言われたので、多分良かったのだろうとイギリスは解釈している。)

 それから現在に至るまで、同盟国であるイギリスは何度もアメリカと公式の席を共にした。アメリカはイギリスとは違い、積極的に女性を誘うようなことはなかったが、それでも何度か彼が踊るところを目撃する機会はあった。イギリスが指導してやったときよりも、彼の背は更に伸びていた。肩幅も広くなり、タキシードのジャケット越しにも肩甲骨から逞しい上腕の筋肉が美しい隆起を描いていた。あの子供はもう何処にもいなかった。ただイギリスの知らない顔をした「国」がそこにはいた。


 そんなシーンを思い出していたからだろうか、ふとイギリスは、明日アメリカはどんな女生徒と踊るのだろうかとそんな当たり前のことに突然思い至った。世界の超大国を自負し、派手なことが大好きな彼のことだ。ヒーローの出番とばかりに颯爽と登場してくるに違いない。そんな彼の相手を務めるのは一体誰だろう?

(もしかしてあいつ、セーシェルと踊りたかったからあんなに噛みついたのか?)

 先日の言い争いを思い出して、いや、それはないなと即座に否定した。そもそもアメリカが本当にセーシェルと踊りたいのなら彼女にダンスの練習を止めさせろなんて言い出さなかっただろう。他の男に彼女を取られるのが嫌だという線もあるが、あれだけ自分に自信のあるアメリカがそういう消極的な心配をするということ自体が考えにくい。それに明日はこちらが余計な気遣いをしなくてもアメリカは忙しいだろう。なんといっても世界で一番裕福で力のある男だ。普段遠くから見ているだけと言う女生徒も、チャリティーという名目があれば彼に声を掛けやすいだろう。もしかしたらもう既にいくつも誘いを受けているのかもしれない。或いは、先程中庭にいた男子生徒のように自分から相手に約束を取り付けているかもしれない。

(結構なことじゃないか。せいぜい寄付に励んでくれ)

 生徒会にとっても大盤振る舞いをしてくれるであろう参加者は大歓迎である。特にアメリカは絶好のターゲットの一人だ。落せるだけ落していってくれとフランス共々期待していたはずなのだ。はずなのだが。

「―――――?」

 気持ちが愉快でない、むしろ急激な下降線を辿りつつあることにイギリスは奇妙な違和感を持った。過去、確かに自分はあの子供が花のような女性たちを堂々とリードしてダンスを踊るのを楽しみにしていた。きっと自慢の弟は会場の淑女たちの視線を独占して、さぞ立派な社交界の花形になるだろうと。そして、あれは優しい子だから、相手の女性も気立てが良い娘がいいとか、反対に若い彼を上手くリードできるような年上のマダムがいいだろうかと、そんなことにまで心を躍らせて気を揉んだこともあった。
 チャリティーの主催者としても、(こういうとアメリカは嫌がるが)かつての保護者としても、イギリスがアメリカのダンス・パートナーについて不快感―――としか表現できない感情を持たなければならない理由などどこにも無いはずだ。なのに、どうして自分は、あの逞しい男の腕が女性の華奢な手を取るところを想像しただけで、こんなにも打ち沈んだ気持ちにならなければならないのだろうか。そして何より不可解なのは、先程から脳裏にちらついて離れないのが、本来ならば自分が好ましいと思っているはずのしなやかな女性の腕ではなくて、清潔なカフスから覗く骨ばった手首とそれに続く大きな男の掌だということだった。

 イギリスは制服の上着のポケットに無意識に手を突っ込むと、中に納めてあった銀時計の鎖を指でなぞった。定期的なメンテナンスから戻ってきたばかりのそれは、明日のパーティーで正装する際に必要なものだ。今ではイギリスも腕時計を日常使いにしているが、遠く大西洋を渡って弟の元へ通っていた時代、その当時はまだ実用化されて間もない懐中時計を愛用していたものだった。まだ発展途上の新大陸であどけない青い瞳をした弟は、イギリスのそれをよく興味深々に眺めていたものだ。その様があんまり微笑ましくて、壊すなよ、と手渡すと、まるで鳥の卵を扱うように小さな掌でそっと包みこんで、「イギリスの音がする」と言ってぱあっと笑った。イギリスは常に時計を懐に忍ばせていたから、幼いアメリカにはその精密機械の動く音が養い親の音として記憶されていたのかもしれない。

 何故か今もアメリカは時計が好きだ。他の装飾品には碌に関心を示さないくせに、腕時計だけはやたらと本数を持っていた気がする。最も時計に拘る男は珍しくないし、これは非常に認め難いのだが―――アメリカは骨格がガッシリしているので、やや大振りのデザインを嵌めていても様になるのだ。そのせいか、本人もコンパクトなデザインになりがちなデジタル時計より自動巻きを愛用しているフシがある。これはイギリスも少し意外だった。(実はアメリカの時計のローテーションには非常に分かりやすい法則があるのだが、それに気付いているのは今のところ目敏いフランスしかいない。彼は普段は専ら機械式のクロノグラフを愛用しているのだが、気分が下降気味―――つまり、某人物と喧嘩などして険悪中の場合にデジタル時計を持ち出す頻度が異常に高いのだ。)

 そういえば以前、どこぞの晩餐会で懐中時計でなく腕時計をしていた不届者を注意したことがあった。それがドレスウォッチならよかったのだが、その時彼はオメガのダイバーズウォッチを巻いていたのだ。良いデザインだと思うし高価な物だということも知っていた。だがTPOにそぐわないのは戴けない。それ以外の部分―――礼装の着こなしだとか靴の選び方だとかについては割と文句の付け所がなかったので、余計にその時計の落ち度だけが目立ってしまっていたのだ。老婆心だとは自分でもわかっていたが、どうにもその点だけが勿体無くてついつい口を出してしまった。案の定、返ってきた答えは『煩いなぁ、君には関係ないだろ』というお決まりの台詞だった。

 関係ない、余計なお世話だ。これまでも事ある毎に繰り返し言われてきた言葉だ。君には関係ない、その通りだ。アメリカはもう自分の弟ではない。過去がどうであれ、彼はイギリスにとっては最早はっきりと分かたれた『他国』だった。だから当然アメリカが誰と踊ろうがイギリスにはどうでもいいことのはずだったし、そんなことに心を煩わせる必要も―――権利もありはしないのだ。

 窓から体を起こしたイギリスは、机の上にほうっておかれたままになっていた紅茶を飲み干すと、そのまま片手で紙コップをぐしゃりと握り潰した。今のイギリスにくだらない事で思い悩んでいる暇はない。まずは明日のパーティーを何としても無事開催に漕ぎ着けなければならないのだ。やるべきことなら制限時間付きで山のように累積している。

 不可解な鬱積を潰した紙コップごとダストボックスに投げ込んで、イギリスは足早に生徒会室を後にした。とりあえず、今は何もかも忘れることにして。

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