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 ホワイトボードの全面に書き込まれたチェックリストの項目に、イギリスはマーカーで確認終了のチェックを新たに一つ書き加えた。
 もう一つのボードにはマグネットでさまざまなメモ類―――伝言だったり請求書だったり業者リストだったりが所狭しと貼り付けられている。その中に、前に部屋を出た時には見当たらなかった『大至急 14時までに決裁ください』と目立つ付箋の付けられた書類を見つけると、イギリスはそれをボードから回収してサインをした後、「決裁済み」のボックスに放り込んだ。

 今日は朝から万事がこの調子だった。パーティーをいよいよ明日に控えている以上、ろくに休憩する暇もないのは覚悟の上だったので今更どうとも思わないが、後から後から湧いてくる雑務には正直目が回りそうだった。準備には万全を期していたので今のところ大きなトラブルがないのが救いだ。もし、例え何事か起こったとしても、生徒会の名誉にかけて開催まで無事漕ぎつけてみせる。それが現在イギリスに課せられた最も重要な命題だった。

 他にも生徒会長の決裁を必要とする書類やら伝票を何件かピックアップすると、イギリスは今日ほとんど初めていつもの指定席である会長の椅子に腰を下ろした。つい先程、パーティー会場である大ホールで昼食を採った際も、運営委員用に手配されたデリのサンドウィッチをその場で立ったまま摘んだのだ。
 昨日から本格的な設営が開始された大ホールは既に大部分の内装が完了している。だが、その会場の一角に設置された委員の為の臨時のフードコーナーは、ほとんどマラソンの給水場と大差なかった。簡素な折りたたみテーブルと散乱する紙皿や紙コップ。本番の為の裏方作業とは言え、ホールの豪華な装飾とのギャップがいっそ凄まじかった。

 思えば食事が採れただけ自分はまだ良かったのかもしれないと、イギリスは書類に走らせた目を一瞬遠いものにした。明日のダンスナンバーを担当する学園の室内楽団のメンバーは、オーストリアの最後の仕上げ―――という名のしごきにあっていたからである。鬼気迫る音響総監督の側に近付こうという命知らずは、イギリスも含めてホール内にはいなかった。

あいつら明日の本番大丈夫かなと若干の心配を覚えつつも、イギリスはもう大分冷めてしまった紙コップの紅茶を一口啜った。これはホールで飲み物をサーブしていたセーシェルに手渡されたものだ。いつもはこちらから催促しないとまともに茶の一つも出さないセーシェルだが、今日は珍しく自分からイギリスの分を持って来たのだ。あまりわかりやすく態度には出さないが、彼女はイギリスがフランスと一緒に贈ったドレスに対して、それなりに感謝の念を感じているようだった。

 週明けの朝一番に、セーシェルはイギリスとフランスにドレスの礼を言いに来た。イギリスの立場からすると、ある程度の面倒は見てやらないと恥をかくのは宗主国である自分だという気概があったのだが、フランスは完全にパトロン気取りでデレデレとセーシェルに鼻の下を伸ばしていた。あんなスケベ中年と一緒にされてはたまらないのでとりあえずフランスは殴っておいたが。(「なんで!?どうして!?」という非難の声が上がったが空耳としてスル―した。)

 大らかな南国の気候風土の元で育った……というより、存在そのものであるからだろうか、日頃は格式ばったイギリスに対して何かと反抗的な態度をとるセーシェルだが、感情表現は割とストレートだ。(だからこそ宗主国に対しても遠慮や委縮をしないのだが。)照れが勝った所為か口調はややぶっきらぼうだったが、礼を言う彼女の瞳には隠しきれない喜色が明らかだった。これにはイギリスの方が少し驚いたくらいだ。
 平素からイギリスやフランスに「もっと女らしくしろ」と注意されるほど、セーシェルは自分の身繕いに関してはほとんど無頓着だ。イギリス達のように華美な文化を持つヨーロッパの国から見れば、彼女よりも貴族の飼い猫の方が余程めかし込んでいるように思える。セーシェルに淑女の振る舞いを要求することは、かのヒギンズ教授にも難題だろうというのがイギリスの見解だった。
 だから用意したドレスも「窮屈だ」とか「こんなの着てたら何も食べられないじゃないですか」くらいの文句は言われると思っていたのだ。だが、恐らくセーシェルはパーティー用の正式なドレスなど持っていないはずなので、選択の余地なく渋々とでも受け取るだろうと。だが、イギリスの予想に反して返ってきたのは純粋な謝意だった。あいつも一応は女だったってことか、とイギリスは首を捻った。

 しかし、いくら事態が急だったとは言え、馴染みのテーラーには随分と無理を言ってしまった。(勿論、イギリスが普段自分のものを仕立てている店とは別の、「馴染みのある」レディース専門のドレステーラーである。何故彼がそんなところと懇意であるのかは色々と、往年の爛れた紳士の事情が実に色々とあるのでここでは伏せておく。)本来なら必要不可欠な採寸や仮縫いといった基本的な作業工程を全てすっ飛ばした上での依頼だったが、それでもかなりの強行軍だったことには変わりないはずだ。他に余地は無かったが店には申し訳ない事をしたなと、イギリスは一人反省した。
 そもそもそれなりの店で服を仕立てるとなれば、恐ろしいほどの手間がかかる。天下のサヴィル・ロウではスーツ一着で半年から一年待たされるなんてことはザラなのだ。今回のセーシェルの場合はとにかく時間の面で制約があったので、既存のデザインのものをセーシェルのサイズに合わせて仕立ててもらうという、所謂セミオーダーで作らせた。では、肝心の彼女の寸法はというと―――なんとフランスが目測で弾き出したのである。
 ドレスの件はセーシェルには内緒というサプライズ的な意味合いがあったので(これはフランスが強固に主張した)、勿論本人に採寸させてもらうわけにはいかなかった。だが、フランスはセーシェルのスリーサイズどころかドレスの仕立てに必要な箇所の寸法全てを、ただ制服の上から見ただけで、それもほぼ正確に計測してのけたのだ。しかもフランスのこの手の能力の精度の高さは非常に不本意なことにイギリスも認めざるを得ないのである。(過去、フランスはイギリス自身のサイズをミリ単位の誤差で言い当てたという実績がある。)才能かセクハラか、ジャッジは微妙なところだが、今回はそれが役に立たないわけではなかったのでグレーゾーンに留めておいてやることにした。

 それにしても、とイギリスは書類に走らせていたペンを止める。植民地である国に衣装を誂えてやるなんて、一体どれくらいぶりだろうか。
 過去、イギリスは世界中にちらばる弟妹たちにそれなりのものを整えてやってきた。それは彼等の為というよりも宗主国たる自分のわかりやすいプライドの為だった。ずっと昔にはそんな打算的な感情とは無縁に愛情を注いだ記憶もあったが、もうそれは記憶でしかない。
 特に近代以降はアジアを中心に覇権を拡大したので、まったく異なる文化圏の彼等に英国式のそれを一から与えてやることは珍しくなかった。ここ最近で一番新しい記憶は香港のものだ。普段は何を考えているのか分かりにくい子供であるが、初めて三つ揃えに袖を通した時、彼はそれらを珍しげにしげしげと眺めた後、「コレ、もらってもいいんスか?」と聞いてきたものだ。あれが本来の兄である中国の文化を捨てることは最後までなかったが、イギリスが持ち込んだ物もそれなりに気に入っていたらしかった。頑固さと柔軟性を合わせ持った不思議な子供だった。
 彼等からは時には反発を受け、時には歓迎も受けた。だが、イギリスの姿勢はどの国に対しても終始一貫していた。宗主たる自分はいかなる植民地に対しても特別扱いは一切しない。与えたものを素直に享受するのなら大英帝国の栄光のおこぼれに与ることもできるだろう。だが、国を奪われたと嘆き反抗するのならこの傘下から追い出すまでだ。もっとも、さんざん歯向かったあげくに自分から飛び出していったやつもいるが。

 イギリスは溜め息を一つ吐くとおもむろにデスクにペンを投げ出した。気持ちが散漫になっているのか、集中力が続かない。革張りの椅子に音を立てて凭れかかり、疲れた眉間を指で押さえた。最近、物を考えるたびに思考が決まってある男のところへと行き着いてしまう。原因は分かっている。先日のつまらない諍い以来、もとから悲観的に物事を考えがちな自分の思考が嫌なループに嵌まっているのだ。

 ギッギッ、と誰も見ていないのをいいことに子供っぽく椅子を鳴らしていたが、一向に捗らない書類に見切りをつけてイギリスは立ち上がった。至急のものは片付けてあるのだし、今こんな状態で無理に進めても後でやり直しになるだけだ。腕に嵌めた時計を確認し、少し早いが再び大ホールへ戻ろうかと思案した時、窓の外からわっという黄色い歓声が聞こえてきた。
 椅子の後ろの大きな窓から階下を見ると、すぐ下の中庭には数名の生徒が輪になって集まっていた。その中心には頬を紅潮させた女生徒と、彼女に寄り添うようにして囃し立てられている男子生徒が見える。状況から察するに、恐らくあの男子生徒は明日のダンスパーティーの同伴を申し込んで、彼女にOKを貰ったというところだろう。こうして見ると、国とは言え自分達はあまり人とは変わらないように見える。楽しい事、嬉しい事があれば誰だって心は浮足立つものだ。

(まあ明日は頑張ることだな。男にとってダンスホールは戦場だぞ)

 個人的には面識のないその国に心の中で健闘を祈りながら、イギリスは少しだけ口元に笑みを浮かべて窓枠に肩を凭せ掛けた。そう、ダンスホールは男にとってはまさに戦いの場なのだ。踊れない者は役立たずにも等しい。それは自分自身の経験から学んだ信条であったし、己の懐に入れた弟達にも必ず告げてきたことだった。

 イギリスは属国化した弟達には必ず優秀なダンスの教師をつけてやった。仮にも英国の息のかかった者たちを他国の笑い者にさせるわけにはいかなかったし、それにいつか―――いつか、彼等がこの手を離れて往く時にもイギリスが齎したものが財産となって彼等の中に残るようにという、情の残滓のようなものでもあった。イギリスはあの雨の日以来、植民地は永遠に自分の元に留まるものだという夢想を信じることを止めていた。

 文化人でなければ歯牙にもかけられない欧州ではダンスは外交の為には必須だった。極端な表現をすれば欧州のルールは国際社会のルールである。北米の若造がどれほど力を伸ばそうとも、魑魅魍魎の集合体と称される欧州の、圧倒的な国の数の前では所詮ただの一国でしかないのだ。
 ましてや、ヨーロッパでは殊のほか政治における女性の影響力が強い。女王の国として名高いのはイギリス自身であるし、他にも女性が権勢を振るった強国は欧州では珍しくない。ペティコート・ガバメントには七年戦争の際にイギリスも苦労させられたものだ。権力を掌中にした女性は本当に恐ろしい。だからこそ―――男女が至近距離で接近する機会のあるダンスパーティーは、陰謀を巡らすには絶好の場であったのだ。三枚舌、とまで称される外交の辣腕家であるイギリス。彼が外交上最も重視した場所はシガールームであり寝所であり、そしてダンスホールだった。

 あれは―――アメリカは、イギリスの言ったことをどれほど理解していたのだろうか。理想など殆ど罷り通ることはないこの世界で彼が生き抜いていけるようにと、国としての在り方、生き方を繰り返し説いて聞かせたが、今にして思えば、アメリカはそういう政治家としてのイギリスの側面を決して好いてはいなかった。潔癖のきらいのあるあの子供は、自由と平等の国を謳いながら未だ女性の上司を戴いたことがない。生き方からして、何もかもがイギリスとは違った。

 だが、イギリスは自分の生き方を変えることはできないし、そのつもりもサラサラない。むしろアメリカの独立こそが今のイギリスを作ったとも言えるのかもしれない。最愛の弟の離反により英国は植民地支配をより強固な路線へと変更した。支配者であることを徹底したイギリスは、もう誰も自分の傍らに置くことはなかった。あの子供に手を離されてから、イギリスは再び誰の手も取ることなく生きてきた。二度と、誰の手も取らないと決めて生きてきたのだ。

 だからよりにもよってアメリカが、自分がセーシェルにダンスの稽古をつけてやってるのかなどと言い出した時は正直耳を疑った。

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