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 首筋を汗が伝う感触がしたが、それが暑さによるものなのか、または焦りから来る冷や汗なのか判別するほどの余裕はセーシェルにはなかった。
 あのまま順調にいっていれば今頃はもう女子寮に戻れていたはずである。なのに自分が招いたこととはいえ、先程からこうしてずっと植え込みの中を這いずり回る羽目になっているのはどうしたことかと嘆かずにはいられない。学園の中庭の木々は定期的に業者が入っているのできちんと手入れはされているが、それでも夏を迎えたばかりのこの時季はどの植木も元気よく生き生きと枝葉を伸ばしている。いっそ冬枯れでもしていればもっと見つかりやすいのに、と明後日の方向を恨みがましく思いながら、セーシェルは再び庭木の中に顔を突っ込んだ。

 探し物を開始してからどのくらいの時間が経っただろう。確かめようにもセーシェルは時計を持っていないし、どのみち見つかるまではここを離れられない。さっき屋内で最後に確認した限りではハンガリーとの約束の時間にはまだ大分あったが、このままではきっと待たせてしまうことになるだろう。一度女子寮に戻ってハンガリーに事情を説明した方がいいか、それともここでもう少し粘った方がいいかをぐるぐる考えていると、ふと、手元が暗くなった。今日は夏の屋外の探し物には無慈悲なほどの快晴で、朝から雲ひとつなかったのに、と不思議に思って顔を上げると、よく見知った人物と目が合った。

「セーシェルじゃないか。そんなところで何してるんだい?」

 眼鏡の薄いレンズ越しに、今日の空と同じ色をした瞳が不思議そうに瞬きをしている。どうやら茂みの中でごそごそと不審な動きをしているセーシェルを見つけて近付いてきたようだった。長身の彼が側に立ったのでセーシェルの周りには影ができたのだろう。セーシェルはいきなり声をかけられて一瞬ぽかんとしてしまったが、我に返るとその男子生徒に泣きついた。

「……助けてくださいっ、アメリカさん!」



 話は数十分前に遡る。
 セーシェルは生徒会長と副会長――つまるところイギリスとフランスのサインの入った書類を手に二階にある職員室へと向かっていた。これを担当の教員に提出すれば、セーシェルは今日はもう帰っても良いことになっていた。
 パーティーを目前に控えているにも関わらず、何故下校の許可が下りたかと言えば原因はフランスである。朝と昼はいつもの通りダンスの練習に付き合ってくれたフランスだが、放課後は生徒会の業務をこれでもかと詰め込まれてしまった為に今日はセーシェルの相手ができなくなってしまったのだ。発端は彼がどうしてもこの週末、どんなに譲歩しても日曜だけは休みたいと生徒会長に談判したためである。


『てめえこの状況で週末休みたいとはどういう料簡だクソワイン!!』

『明日の土曜日は出てもいいって言ってるでしょ!だからせめて日曜くらいは休ませろよ!不信心な坊ちゃんには分からないかもしれないけどね、安息日っていうのは俺みたいな敬虔な信者にはそりゃあ大事な日で……』

『はっ、フランス語ではいつから敬虔の意味が変わったんだ?それに安息日っていうのは平日きっちり働いたやつに与えられるもんなんだよ。てめえみたいな平日休み放題のスト大国が偉そうに抜かすんじゃねえ』

『ひどいっっ。ストは俺のせいじゃないもん、神様がちょっと鬱だっただけだもん!』

『中世ならいざ知らず、このご時世てめえは一体いつまで日曜に拘ってんだ、あぁ!?そのうちパリの一等地が全部日本企業になっても知らねえぞ!』


 ……という、一幕が繰り広げられた後、今日の放課後は死ぬほど働くという条件と引き換えにフランスはなんとか生徒会長から明後日の日曜の休みを捥ぎ取ったのだった。
 そういう訳で、当然彼はセーシェルのダンスの相手をしている暇はなくなってしまった。セーシェル自身はちょうど仕事にキリがついていたので(実質使い走りのセーシェルと幹部であるイギリス、フランスとでは抱えている業務の内容も量もまるで違う。彼等がどれほど忙しくても、セーシェルにはこなせない仕事ならばそれは彼等が自分でやるしかないのだ)、放課後がぽっかり空いてしまうことになったのだった。
 仕方なく一人で自主練をしようと考えていたセーシェルだったが、ありがたいことにそれを知ったハンガリーが再び練習相手に立候補してくれた。あいにく前回特訓に使った多目的室は既に予約が入っていたが、寮の談話室の使用許可が出たということで、ハンガリーはまだ少し仕事が残っていたセーシェルよりも先に寮に戻っているのだ。

 無事に書類を提出し終えたセーシェルは、職員室前の廊下で鞄の中を探っていた。取り出した薄いブルーの携帯電話で時刻を確認する。ハンガリーは遅くなってもいいと言ってくれたが、思ったよりもずっと早く用件が済んでほっとした。

 セーシェルは腕時計をする習慣がないので、時間を確認するときはいつも携帯電話を使っている。その携帯も生徒会に入ったときにイギリスから「すぐに連絡がつかないと困る」という理由で半ば無理矢理持たされた物だった。買ってくれたのも勿論イギリスだ。月の使用料はセーシェルが自分で払っているが、日本の様にメールをしたり(これは日本は本当にすごい)、音楽やゲームをダウンロードすることはないし、通話にしても専らイギリスやフランスからの呼び出しを受けることが殆どなので、ごくごく僅かな基本使用料のみで済んでしまっている。
 ただ、使っていると自然と愛着は湧くもので、最初は初めて持つ携帯に拒絶反応を示していたセーシェルもだんだんに馴染んできた。アドレス帳には親しい生徒のデータも登録してあるし、最近では日本に待ち受け画面の画像を色々と設定してもらったりして、初心者ながらにちょっとは楽しんでいたのだ。

 だが、仕事が終わって安心していたからか、それとも単に不注意だったのか、セーシェルは前方に積まれていた大きな段ボールに気が付かなかった。恐らく職員室横の資料室にしまわれるものが廊下に出されたままになっていたのだろう。危うくぶつかりそうになる手前でその存在に気付き、はっと後ろにのけぞった瞬間―――手に握っていた携帯電話をうっかり取り落としてしまった。それも運悪く、彼女の手を離れた携帯は、空いていた窓の外へするりと逃げたのだ。声にならない絶叫をあげてセーシェルが窓にかじりつくと、ちょうど中庭の植え込みの中へ綺麗にダイブを決める残像がかろうじて見えた。
 廊下は走らない、という校則など気にしている場合ではない。セーシェルは脱兎のごとく走り出し、携帯が消えた辺りを必死に探し始めた。失くしたなんてことがイギリスに知れたらどうなるか分かったものではない。形振り構わず這いつくばって捜索を続けていたが、何しろ木が生い茂っているのと、携帯自体が同系色なので探しにくいことこの上ない。焦りはつのるが一向に見つかる気配はなかった。
 そして、どうしようかと途方に暮れかけていたところ、セーシェルは通りすがりのアメリカに発見されたのである。


「……そんなわけで、確かにこの辺りに落ちたはずなんです。植え込みのどこかに引っかかっていると思うんですけど……」

 壊れているかどうかも心配だったが、ともかく見つからないことには話にならない。セーシェルは藁にも縋る思いでアメリカに助けを求めた。
 するとそれまでセーシェルの必死の話に耳を傾けていたアメリカが「ちょっと確認したいんだけど」と尋ねてくる。

「セーシェルは着信音ってどうしてる?オフにしたままかい?」

「は?え、着信音ですか?いえ、普通に音出るようになってますけど」

 特にパーティーの企画が始まってからは生徒会の呼び出しも頻繁なので、着信音の音量は常にオンにしてあった。授業中は電源自体を切ってしまうので問題ない。

「だったらさ、俺がセーシェルの携帯に掛けてみるよ。そうすれば音がした辺りを探せばいいってことだろう?」

 そうあっさりと提案するとアメリカは制服のポケットから自分の携帯を取り出した。セーシェルが使っている必要最小限の機能のものとは違って、アメリカのは多機能でデザインがすごく格好良い。長い指で彼がするすると操作する様子を見ていると、突然どこかから聞きなれた音が響いてきた。耳をそばだてて音がした付近の植木を掻きわけると、ついに時間にして数十分―――しかしセーシェルとっては数年に匹敵するほどのご無沙汰ぶりに、自分の携帯と対面を果たすことができたのであった。

「あ!ありましたアメリカさん!見つかりました!」

 さすがに二階からの華麗なダイブで表面には若干のキズがついてしまっているが、植え込みがクッションになったおかげで液晶や機能自体にはどこも損傷がなかった。

「よかったねセーシェル」

「はい!本当にありがとうございました!」

「ははっ、このくらいヒーローにとってはお安い御用なんだぞ!」

 あらためて携帯の待ち受けで時間を見ると、ハンガリーとの約束にはまだ三十分近く余裕があった。しかし、ここにアメリカが通りかかってくれなかったらと考えると本当に恐ろしい。 普段はヒーローなんて言われてもいまいちピンとこないことの方が多かったが、この時のアメリカはセーシェルにとってまさにヒーロー以外の何者でもなかった。携帯の着信音を頼りに探すなんてそんな簡単なことにも気付けないほどパニック状態だったのだから、窮地を救ってくれた彼にはいくら礼を言っても足りないくらいだ。

「本当に助かりましたアメリカさん」

 何度も礼を言ったセーシェルは、やっと巡り合えた携帯を丁寧に鞄の中へしまった。もう二度と落としたり失くしたりしたくない。そんなセーシェルに「ヒーローが困っている人を助けるのは当然だからね」とお決まりのセリフを言ったアメリカだったが、その彼の視線がセーシェルの足元でふいに止まった。

「セーシェル、足ケガしてないかい?」

「え?」

 アメリカの視線を辿って自分の脚を見ると、どこかで擦り剥いたのか、右の膝から血が出ていた。きっと携帯を探すのに四つん這いになっていた所為だろう。

「あ、でも大して痛くないし、このくらい平気ですよ」

 実際アメリカに指摘されるまで気付かなかったくらいなのだ。確かにじわじわと血が滲んできているが、範囲もそんなに大きくないし、寮に戻ってから手当てをすれば大丈夫そうだ。
 しかし、アメリカは微妙な表情をして患部を注視している。

「うーん…、でも血が制服に付くと厄介だよ。洗濯しても落ちにくいし」

 アメリカの言う通り、確かに姿勢によってはスカートの裾を汚してしまうかもしれない。制服のことまで考えていなかったセーシェルは一瞬きょとんとしたが、彼の言うことも最もだった。

 するとアメリカは「ちょっとそこに座って待ってて」とすぐ側のベンチの一つを指差すと、そこに自分のリュックを放り投げて、少し離れた場所に居た下校途中の女生徒の方へと走って行ってしまった。
 アメリカの行動の素早さに呆気にとられたセーシェルだったが、言われた通り大人しくベンチに腰掛けてアメリカを待つことにした。彼のリュックも置きっ放しの状態では勝手にここを離れてしまわけにもいかない。座ったまま首を伸ばして彼の様子を伺うと、アメリカは数人の女生徒のグループに声を掛けていた。突然声を掛けられた彼女達は最初びっくりしたようだったが、相手がアメリカと分かるとなんだか妙に色めき立ち始めた。遠目で見ているセーシェルにも彼女達のきゃあきゃあと楽しげな様子がよく分かる。アメリカは校内では知らない者がいないほどの有名人なので、ひょっとしたらセーシェルが思っている以上の人気者なのかもしれない。
 セーシェルにとってのアメリカは、あくまでイギリスの古い知り合い、という認識の人物であり、親しくはしているが決してそれ以上の対象として見たことなど一度も無い。そもそもセーシェルは愛の国を自負するフランスが「お前も年頃の女の子なんだから…」と嘆くほど恋愛沙汰には一切の興味を持ったことが無かった。
 しかしこうして客観的に見てみるとアメリカは女生徒達に結構モテるようだ。男性の魅力などセーシェルにはまだ殆ど理解できなかったが、アメリカは大国だし、外見も多分良い方なのだろう。それに先程のように困っている人を見捨てたりしない。そういうところに惹かれる女の子が沢山いても不思議ではなかった。そういえばイギリスもこの前似たようなことを言っていなかっただろうか。

 それを思い出した途端、セーシェルはまた少し憂鬱な気持ちになった。あれから二日経つが彼等が仲直りをした様子はまだなかった。フランスも今回は少し時間がかかるかもしれないと言っていたが、このままの状態で長期休暇に入ってしまったら彼等は仲違いしたまま数カ月は会わないことになる。それはあまり良くないことなんじゃないかと他人ながらに思うのだ。

 なんとなく落ち着かない気分でベンチに座っていたセーシェルだが、アメリカは女生徒達に軽く手を振るとあっという間にこちらへ戻ってきた。一体何をしていたのだろうと尋ねる前に「はい、これ」と手を差し出される。彼の大きな手にはごく一般的なサイズのバンドエイドが二枚握られていた。

「友達が足を擦り剥いたって言ったら、あそこの彼女達がくれたんだ。ちゃんとした治療は後でするとしても、とりあえず貼っておくといいよ」

 どうやらアメリカは応急処置をできるものを持っていないかと女生徒達に声を掛けてくれたらしかった。言われるままに受け取ってしまってから、セーシェルははっとアメリカの後ろに視線を送る。セーシェルのためにバンドエイドを提供してくれた女生徒達が小さく手を振っていた。お礼の意味をこめて慌てて頭を下げると、彼女達はまた手を振り返してどこか楽しげに去って行った。

「アメリカさんすみません。じゃあありがたく使わせてもらいますね」

 薄いパラフィン紙をぺりぺりと剥がしながら、セーシェルはいざという時の為にこういうものも持ち歩かないとなあ、と密かに反省した。そういえばハンガリーやリヒテンシュタインは鞄の中に可愛いポーチを常に忍ばせていて、その中にこうしたバンドエイドや小さな裁縫セットの類を入れているのを見たことがある。自分も少しは彼女達を見習ったほうがいいのかもしれない。
 携帯用の裁縫セットに関してはイギリスにねだってみようと思った。きっと彼なら一つや二つ余分に持っているだろう。彼は何故か針仕事が異常に得意なのだ。

 バンドエイドを慎重にぺたりと貼りつつそんなことを考えていると、同じベンチの端にどかりと腰かけたアメリカが何やらごそごそとリュックの中を探っているのが目に入った。彼の様子は平素となんら変わったところはなく、セーシェルも目の前で目撃していなければアメリカとイギリスが大喧嘩の最中なんて疑いもしなかっただろう。自分に対するアメリカの態度もいつも通り適度にフレンドリーだった。最も、一方的に気まずい思いを抱いてるのは自分だけで、アメリカの方はあの現場にセーシェルやフランスが居たことさえ知らないのだ。

 すると、鼻歌まじりにリュックを漁っていたアメリカが中からコーラのペットボトルを二本取り出すと、そのうちの一本を「あげるんだぞ。良かったら飲みなよ」とセーシェルに渡してきた。まだ買ってそう時間は経っていないらしく、汗をかいたボトルは十分冷たかった。先程から炎天下の中汗だくで探し物をしていたセーシェルには願ってもない申し出で、お礼を言うと遠慮なく貰うことにした。封を切るとぷしゅっという音とともにほんの少しだけ茶色い泡が零れてくる。さっきアメリカがリュックをベンチに放り投げた時に少し振られてしまったのかもしれなかった。手を濡らしながら慌てて口をつける。隣を見るとアメリカは既に半分近くを空けていた。

 そこでセーシェルはあることに気がついた。今までとにかく自分のことで精一杯だったのでうっかり失念していたが、この中庭を通りかかったアメリカには他に何か用事があったのではないだろうか。

「アメリカさんはどうしてここに?何か用事があったんじゃないんですか?」

 だとしたら自分はすっかりアメリカを付き合わせてしまったことになる。彼の様子からして急いでいる気配はないが、まったく目的もなくここに来たようには見えなかった。俄かに慌てるセーシェルに、しかしアメリカはあっさりと目的を告げた。

「あぁ俺かい?俺はここで待ち合わせの約束をしてるんだぞ」

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