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「さっきのあれで頭に血が上ってる坊ちゃんの相手をするなんてお兄さんはごめんだね。あいつもちょっとはクールダウンする時間が必要でしょ」
それに俺達だって今日はずっと働きづめなんだから、ちょっとくらい休憩したっていいじゃない、とフランスはセーシェルの為に空いている椅子を引いてくれた。そしてそのままカウンターで二人分の飲み物を買ってくると、一つをセーシェルに渡す。「最近良く頑張ってるからね。これはご褒美」と言ってフランスは財布を取り出す間さえ与えてくれなかった。クラッシュアイスの入った冷たいオレンジジュースをストローでかき混ぜると、搾り立てのふうわりとした柑橘の香りがした。なんだか慰められているような気持ちになる。
「あの……、イギリスさん達、あのままで大丈夫でしょうか……」
セーシェルはただ単に巻き込まれただけなのだが、諍いの中心に何度も自分の名前が出てきただけに気になって仕方がない。
「あいつら?まあ、今回はちょーっと派手にやらかしたけどね……。今すぐには無理でもそのうち元に戻るでしょ」
セーシェルが気に病むことなんて何もないよ、とフランスはごくいつもの調子で言った。
「むしろさっきのはアメリカが勝手に突っ走ったんだろ?手加減出来なかったイギリスもイギリスだけどな。あいつ、自分の身内にちょっかい出されるの昔から大っ嫌いなんだよ。例え相手がアメリカでもね。……ってことは、あいつ無意識にもうアメリカのことは身内から除外してるのか……アメリカのやつ多分そこまで気付いてないだろうな。肝心な部分を……可哀想に……」
前半はともかく、後半は何やら一人で納得してうんうんとフランスは頷いた。セーシェルにはよく理解できなかったが、フランスの言う「身内」とは英連邦をはじめとしたイギリスの植民地のことなのだろう。アメリカが言うように、間違ってもセーシェルはイギリスから可愛がられてなどいないが、それでも彼が不器用なりに自分の植民地たちのことを気に掛けていることは、彼の懐に一度でも入った者達ならば誰もが知っていた。そしてアメリカはその懐の中から自分の力で抜け出した国だった。
アメリカが何を考えているのか正直セーシェルにはわからない。ダンスに四苦八苦するセーシェルをヒーローとして見過ごしておけなかった、というのが彼の弁だが、それにしてはアメリカは必要以上にむきになってはいなかっただろうか。特に最後の方の会話は話の主旨がセーシェルからイギリスへとすり替わっていたような気がする。明朗快活なアメリカにしては彼の言動には腑に落ちない点がいくつもあった。
そしてフランスは気にしなくていいと言ったが、やはり二人の仲違いにはどうしたって自分が関わっているような気がしてしまうのだ。と言うより、ただ単に自分の知り合い同士が喧嘩をしているという状況が気持ちを沈ませるのかもしれない。だからと言って自分が仲裁に入るわけにもいかないし、また出来るはずもないことも分かっていた。
落ち込むと連鎖的に悪い事ばかり考えてしまう。ダンスだってそうだ。漸くまともになってきたとは言え、どうしたってセーシェルは明らかに初心者に違いなかった。周りの人達に比べてあまりにも差がありすぎて下手だから、きっとアメリカもそんなセーシェルを気の毒に思ったのかもしれない。そう考えると自分は本当に無力な気がして、なんだかとても情けなかった。
そんなことをぽつりぽつりとフランスに話す。彼はずっと黙って聞いていてくれたが、飲んでいたカフェ・グラッセを置いて「これはお兄さんの推測なんだけど」とセーシェルと目を合わせた。
「アメリカがセーシェルが練習に追われてるのを可哀想に思ったっていうのは本当だと思うね。あいつ自身が他人に強制されたり束縛されるのを嫌がるタイプだし。だからセーシェルのダンスが上手いとか下手だとかはあいつにとっては全然関係ないんだよ。ただ今回アメリカの悪かったところはセーシェルの意思を確認しないで勝手にやったことと、それからちょっと……いや、大分私情が挟まってたところかな……」
「私情、ですか?アメリカさんの?」
思いもよらない言葉にきょとん、と瞬きをしたセーシェルにフランスは苦笑した。
「そう。純粋な善意だけの行為じゃなかったからあいつも後ろめたかったんだろ。だから必要以上にむきになったのさ。まあ、火に油を注いだのはイギリスだけどね」
本当にあいつらしょうがないよなあ、と困った子供を相手にするようにぼやいたフランスは、だがアメリカの私情とやらについては詳しく言及しなかった。
「そんな訳だからさ、セーシェルは何も悪くないんだよ。むしろアメリカ…っていうか、あいつらのことは広ーい気持ちで見逃してやって」
いつもはセクハラめいたことしかしてこないくせに、こうして親身になってくれるフランスはやはりセーシェルにとって頼りになる元宗主国だった。今はイギリスの傘下に入った為に二人の立場は変わってしまったが、だからといって過去の絆が無くなってしまったわけではない。そしてそれはイギリスとアメリカもきっと同じだ。二人とも上手い距離の取り方がわからなくて衝突を繰り返しているが、心の中ではお互いを気にし合っているはずだ。イギリスもアメリカも本当に嫌いな相手に対しては見向きもしない。そういう変なところが似ているのだ。だからフランスの言う通り、少し時間はかかるかもしれないが恐らく二人は仲直りするだろう。そう思えたら少し気持ちが浮上してきた。
「あの、フランスさん」
「ん?」
飲み掛けのグラスにミルクを注いでいたフランスに、セーシェルは数日前からずっと気にかかっていたことを思い切って聞いてみることにした。
「フランスさんはどう思いますか?その、私まだ全然上手く踊れないですけれど、それでもパーティーに出た方がいいって、そう思いますか?」
それとも、と続きを言い淀んだセーシェルにフランスは一瞬驚いたような表情をしたが、やや俯いてしまったセーシェルを覗き込むようにすると「当たり前でしょ」と言って笑った。
「……実はさ、それに関しては俺もイギリスもセーシェルに黙って勝手に期待してたことがあったんだよね」
「……さっきイギリスさんが言ってた、女性パートの人数が少ないとかどうとかいうやつですか?」
「うん、それもあるんだけど。それとは別にもう一つね」
フランスは手元のグラスをストローで一回、二回とゆっくりかき混ぜた。コーヒーとミルクの境界が徐々に無くなって、柔らかいマーブル模様になる。彼はそれを一口飲んだ。
「俺達が言うのも何なんだけど、こうした学園のことで中心になるのは欧米クラスやアジアの一部の連中ばかりだろ?セーシェルがいるアフリカクラスや中東、東南アジアの国なんかはいつも脇に置かれちまってる。仕方のない事かもしれないけどね」
確かに学園の最高機関である生徒会からしてツートップはイギリスとフランスが牛耳っている。アフリカクラスの生徒たちはセーシェルを含め、殆どが彼等ヨーロッパの植民地だった。また、生徒会役員ではないがアメリカも強い発言力を持っているし、アジアでは日本と中国の存在が群を抜いている。W学園のパワーバランスはそのまま世界情勢が反映されているのだ。先進国以外の国が目立てないのはここでは暗黙の了解のようなものだった。
「だけど、今度のパーティーは全校生徒の慰労会ってことになってる。パーティーは自由参加だけど、折角だから出来るだけ沢山の国に出てきてほしいんだ。勿論、普段あまり表に出ないようなクラスの生徒達にもね。だからセーシェルがダンスに出るって噂になって、俺達ヨーロッパクラスとも打ち解けてるっていうのが学園中に広まれば、アフリカクラスの連中も気後れしないで顔が出しやすいだろう、ってお兄さん達はそう考えたんだよ」
だからごめんね。本当のことを言うと、これは俺達の我が侭なんだ、とフランスは申し訳なさそうにセーシェルに告げた。
フランスに言われたことは思いも由らないことだった。そういえば、セーシェルのクラスメイトの中にはパーティーへの出席を迷っている国が少なからずいた。彼らだって楽しい事は大好きなはずなのに、きらびやかな先進国への気後れが先立って躊躇している者が多かったのだ。イギリスとフランスは同じアフリカクラスのセーシェルを担ぎあげることで、彼等が気楽にパーティーに出て来られるように計画を練っていたのだ。
「……セーシェルはどうしたい?どうしても嫌だって言うんなら、俺もイギリスも考え直すよ。パーティーにはダンスだけじゃなくて、お兄さんプロデュースの自慢の料理だってあるんだしね」
先程生徒会室の前で頭を撫でてくれた時と同じような表情をフランスはしていた。セーシェルは手にしていたオレンジジュースを一息に半分まで飲むと、グラスをぐっと握りしめる。
「私は、当日までにちゃんと出来るか分からないですけど、でもここまできたんだから最後まで頑張ってみようと思います」
セーシェルが口にしたのは、先程イギリスがアメリカに言った言葉とほぼ変わりなかった。なんだか色々あって頭が少しごちゃごちゃしてしまったが、単純に素直になれば、やはりこれまでの特訓の日々が無駄になってしまうのは嫌だった。折角あんなに頑張ってきたのだ、あともう少しのところで投げ出したくない。
「だから、その、フランスさん。もう少し私の練習に付き合ってくれますか……?」
多分これからも沢山間違えるし、足も踏みまくると思いますけど、と付け加えたが、フランスは片目を瞑ると「前にも言ったでしょ?セーシェルのデビュタントは譲らないって」と言った。相変わらず気障だが、そういう仕種が嫌味にならないところがフランスならではだ。
彼のお陰でセーシェルも漸くいつもの調子を取り戻してきた。「じゃあ、坊ちゃんがお待ちだろうからそろそろ戻りましょうかー」と席を立ったフランスの背中にフランスさんフランスさん、と呼び掛ける。
「もしパーティーでダンスが上手くいったらご褒美が欲しいです!」
「ああ、そうだね。何か欲しいもんでもあるんなら……」
フランスがそう返事をするや否や、セーシェルは目をキラキラとさせて勢いよく宣言した。
「バスキン・ロビンスのアイスクリーム!全種類制覇するのが夢だったんです!」
セーシェルが挙げたのは常時三十一種類、プラスもう一種類のフレーバーを販売していることで有名なアメリカ資本のアイスクリームショップだった。当然その甘さから色彩まで見事にアメリカテイスト全開である。フランスの美意識からすれば、あれがかのメディチ家の公女が我がフランスへ輿入れをした際に伝えたという由緒正しき氷菓のなれの果てかと思うと非常に嘆かわしくもあるのだが、しかしセーシェルが期待に満ちた目でそれがいいというなら頷くしかないのである。
「あー…、わかったからセーシェル、食べる時は一度に三つまでにしなさいね……」
最近妙に舌がアメリカナイズされてきたこの娘の将来が不安で仕方ない。これもやはり英領の呪いなのか。
だが、「約束ですよ!」と嬉しそうにしているセーシェルを見てフランスもまあいいかと相好を崩した。件のアイスの青やら赤の派手な着色料が一瞬頭の隅を掠めたが、可愛い少女の笑顔のためなら愛の国としては安いものだ。しかしそれに比べてこれからの苦労―――御機嫌が非常に麗しくないであろうイギリスをどう宥めるか―――を思うと、やや足取りが重くなる。フランスは彼なりに先程のアメリカとイギリスの遣り取りを反芻すると、そのあまりの不毛さにげんなりしてしまうのだ。
(お兄さんから言わせてもらえば、誰が誰と踊るとか踊らないかなんて駆け引きこそが、ダンスパーティーの醍醐味だと思うんだけどね)
しかし、アメリカは今回どう頑張っても本命と踊れる見込みがない。だからこそイギリスにあれほど噛みついてみせたのだろう。まったく青臭くてつい応援してしまいたくなるが、こればかりは流石の愛の国もどうすることもできない。当の本命は超大国の葛藤などまるで気付いていないし。
だが、差し当たってのフランスの任務はその鈍感生徒会長の御機嫌取りだ。前を跳ねるように歩くセーシェルの背中を追いながら、フランスは仕事に戻るべく一つ伸びをした。
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