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アメリカは生徒会の役員でこそないが、何故か頻繁にここを出入りしている不思議な生徒だった。聖域の主であるイギリスがそれを強く阻止しないのもセーシェルにとっては謎である。ちなみにイギリスとフランスとはまた違った意味で、この二人も仲が良いのか悪いのか判断し兼ねる微妙な関係だった。どうやらアメリカとイギリスは一時期家族のような関係にあったらしいのだが、詳しい事はセーシェルは何も知らない。イギリスには恐ろしくてとても聞けたものではないし、フレンドリーで人当たりの良いアメリカでさえ、この件に関しては他者を踏みこませないように壁を作っているところがある。二人とは馴染みの深いフランスも傍観者に徹しているので、セーシェルもそれに倣うことにしていた。要は自分に火の粉さえ飛んでこなければいいのだ。
だが、先程アメリカは確かに自分の名を出した。あの二人の諍い事は日常茶飯事なのでセーシェルはあまり気にしたことが無いが、自分が、それもまったく預かり知らぬところで当事者となっているのならば話は別だ。このまま部屋の中に入って行くのも躊躇われてどうしようかと外でおろおろしていると、今度はイギリスの声が聞こえた。
『セーシェルが可哀想?どういうことだ?』
『……彼女、パーティーのダンスに無理矢理参加させられるそうじゃないか。朝も昼も放課後も練習漬けだって聞いたんだぞ』
確かに、セーシェルがパーティーに向けてダンスの猛特訓をしていることは校内に知れ渡っている。最近では廊下ですれ違う知らない生徒にも「練習がんばってね」と声を掛けられることもあるくらいだ。ずぶの素人だったセーシェルにとってダンスは一筋縄ではいかない苦行だったが、そんなふうに周囲から励まされて悪い気はしなかった。練習当初は日本たち慢研のメンバーに多少の愚痴を言ったことはある。だがアメリカとは一言もこのことについて話などしていない。どうして彼がわざわざイギリスにセーシェルのことを非難がましく詰め寄っているのだろう。
『あいつが少しでもまともに踊れりゃ練習なんてさせる必要もねえんだよ。このまま当日迎えて見ろ、公衆の面前で恥を掻くのはあいつだぞ』
扉の影から見えるイギリスは、正面奥の会長机に寄りかかるようにして腰を掛けている。困惑気味な表情をしているのは、セーシェル同様、アメリカが何故突然こんなことを言い出したのか測りかねているからだろう。彼に対峙している当のアメリカは、扉に背を向けているのでセーシェルからはその表情は殆ど見えない。だた、夏服の白いベストに包まれた背中が隠しきれない苛立ちを伝えていた。
『だからそれが可哀想だって言ってるんだよ。踊れない子を引き摺り出すなんて、君が言う紳士のすることかい?』
『……なんだって?』
『ダンスの参加は善意のチャリティーなんだろう?だったらセーシェルの意思が尊重されるべきだ。それを強制参加だなんて、レディ・ファーストの国が聞いて呆れるよ』
アメリカの言うことは全面的にセーシェルに同情的だった。彼の理屈には一理あるし、もしこれがセーシェルが本格的にダンスの特訓を開始する前に言われたことだったら、きっとアメリカに感謝をしただろう。でも―――。
「あれ?セーシェル?そんなとこに立ってどうしたんだ?」
部屋の中の二人の様子を伺うのに集中していたために、背後の気配にはまったく注意を払っていなかった。びくうっ、と髪が逆立つ勢いで振りかえると、リネン室での作業を終えたらしいフランスが生徒会室に戻ってきたところだった。中に入らず扉の前で立ち往生しているセーシェルを見つけて不可解に思ったフランスは、「何?中入らないの?」と怪訝そうに尋ねてくる。
セーシェルは慌てて(フランスさんしーっ!)と小声で彼を制し、人差し指を口元に立てて声を落としてくれるように頼んだ。
するとそれだけで何事かを察したフランスは、セーシェルの頭の上からひょいっと扉の隙間を覗き見た。どうやら今のやりとりは室内の二人には気付かれなかったようだ。セーシェルもフランスから意識を再び部屋の中に戻す。アメリカの辛辣な言葉に短い沈黙を守っていたイギリスが、何事かを思案するように腕を組んだところだった。
『……確認しておきたいんだが。セーシェルがお前にそう言ったのか?』
『え?』
『ダンスに出たくないから俺に談判してくれ、とでもお前に頼んだのかと聞いてるんだ』
隣のフランスが目だけで「そうなの?」と尋ねてきたが、セーシェルはぶんぶんと首を横に振った。勿論そんなことはアメリカに頼んでいない。
『……これは俺の独断だよ。彼女が迷惑がってるのは見ただけでわかるじゃないか。困っている人を助けるのはヒーローの務めだからね』
だからセーシェルは関係ない、あとで彼女を責めるようなことはしないでくれ、とアメリカは付け足した。
『そうか、よくわかった』
一方的に言われっ放しだった割には、イギリスは特に激昂することもなくすんなり頷いてみせた。え?え?、とセーシェルは状況がよく飲み込めずにいたが、フランスは何故か「あーあ、ガキが。相変わらず交渉下手だねぇ」と肩を竦めた。訳が分からずフランスを見上げると、彼は含みのある――どこか気の毒そうな笑い方をして「まあ見てな」と言った。
「え?」
「アメリカも懲りない奴だよなぁ。―――さあ、坊ちゃんの反撃が始まるぜ」
イギリスは先程と同じ姿勢のまま、腕だけをするりと組み替えると、とても冷静な――いっそ穏やかと言える声でこう切り出した。
『お前の言いたいことは分かった。そういうことならこちらは変更する点は何もない。予定通りセーシェルはダンスに参加させるし、練習もこれまで通り継続してもらう』
『な…っ、君、本当に俺の言ったこと聞いてたのかい!?』
素直そうな態度とは裏腹に、アメリカの意見をばっさりと切り捨てたイギリスに当然アメリカは食って懸かった。だがそれさえもイギリスは軽く受け流す。
『勿論だ。寸分違わず聞いてたからこそ、お前の酔狂なヒーローごっこには付き合えねえって言ってるんだよ』
『どういうことだい!?そこまで言うんなら納得できるようにきちんと説明してもらおうじゃないか!俺は君の口先だけの言い逃れには誤魔化されないぞ』
『…じゃあ言うが』
啖呵を切ったアメリカとは対照的に、緑色の瞳をすうっと細めると、イギリスは淡々とした口調で話し始めた。
『まずお前が言ったように、パーティーでのダンスはチャリティーだ。慈善活動だからこそ、確かに参加は本人の自由意思に任されている。でも、それは建前だ。世の中には面子ってやつがある。例えば俺達G8のような経済的に先進国とされてる国が、ダンスの得手不得手や気分の問題だけでそれを欠席できるか?少なくとも途上国と言われている奴等は納得しないだろうな』
そういえば以前日本も「立場があるので参加する」と言っていた。彼は彼で財政赤字や国債の乱発に頭を悩ませているようだが、GDPベスト3に入る実績を持つ以上、チャリティーへの不参加は周辺国に対して確かにあまり良い心証を抱かせないだろう。あのロシアでさえ、妹に怯えていると噂されながらもダンスへの参加を表明しているのがそのいい例だ。
『そして、俺たち国の性別はどういう訳か男の方が多い。先進国と呼ばれている連中は殆どがそうだ。そいつらがダンスに参加するためには何が必要だ?―――決まってる、パートナー役の女性だ』
『……じゃあその為にセーシェルは駆り出されるってわけかい?』
『女性パートが出来るやつは貴重なんだよ。今回の方式は一曲ごとに相手の指名料を寄付することになっている。つまり参加者が多ければ多いほど寄付の金額は上がる。収益金はすべて慈善団体に贈られることになってるんだ。その何が不満だ?ヒーロー?』
アメリカがぐ、と言葉に詰まった。セーシェルも今のイギリスの言い方はちょっと意地悪だなあと思う。先程アメリカがイギリスのことを紳士がどうとか当て擦ったのを倍にして返してきたのだ。さすが冷血漢。目だけでなく血の色まで緑に違いない。
『でも、セーシェルが嫌がっているのに変わりはないだろう。本人がやりたくもないことを無理に強制するのはよくないって言ってるんだ』
あ、とセーシェルは思う。先程も感じたが、アメリカがそう言う度に胸の中になんだかもやもやとしたものが湧いてくるのだ。心配してくれるのは嬉しいのだけれど、何故か素直に喜べない。
すると、それまで無表情を通していたイギリスが、初めて僅かにその太い眉根を寄せた。
『なるほど、確かにあいつはかなり文句は言ってたみたいだがな。でも一度だって止めるとは口にしなかったぜ』
そうだった。イギリスに言われてみて、初めてセーシェルは自分が一度も「止める」と言ったことがなかったことに気が付いた。
『もしあいつが本気で逃げ出すつもりなら俺もフランスも最初からやらせようなんて考えなかった。時間の無駄だしな。だけど見てみろ。あいつはまだ下手に違いないが、少なくともこの短期間で見るに堪えないレベルは脱したぜ』
フランスがそこで労うようにセーシェルの頭をポンポンと撫でてきた。そういえば彼もあれだけセーシェルに足を踏まれ、蹴りつけられしたのにも拘らず、ずっと根気よく練習に付き合ってくれた。フランスとて決して暇な身分ではないのに。それにもし本当にセーシェルが全力でダンスを拒否したら、きっとフランスはイギリスに掛け合ってくれただろう。でもフランスは始めから反対しなかった。文句を言いながらも練習を続けてきたセーシェルを見て、大丈夫だと判断していたからかもしれない。
『アメリカ、お前の言うことはセーシェルの今までの努力を否定することになる。なんなら本人に聞いてみるんだな』
きっと出来るだけのことはやってみるって言うだろうよ、とまるでセーシェルの気持ちを代弁するかのようにイギリスはさらりと言った。
よく聞けば全然褒められてはいないのだが、それでもイギリスはイギリスなりにセーシェルのこれまでの努力を認めてくれていたようだ。イギリスもフランスも、彼等なりにセーシェルのことを考えていてくれていた。
「……イギリスさんもフランスさんもずるいですよ。あんな風に言われたら、最後までやらなくちゃって思うじゃないですか」
小さい声でぼそぼそと呟くと、またフランスが大きな手で頭を撫でた。
しかし、部屋の中では依然として緊張の糸が切れていないようだ。アメリカはまだ物言いたげにイギリスを睨んでいる。
『……随分とセーシェルのこと買ってるんだね。彼女が可愛いかい?』
有り得ない事を口にしたアメリカにセーシェルが驚く前に、イギリスが今度はあからさまに顔を顰めて不快感を顕わにした。
『はぁ?お前一体何言ってるんだ?』
『忙しい君が業務の合間を縫って、直々に彼女にダンスを教えてるって噂になってるよ。随分優しいじゃないか』
日本達が誤解をしていたように、どうやらアメリカもイギリスが直接セーシェルを教えていると思い込んでいるようだった。訂正しようにも今までずっと立ち聞きをしていた手前、このまま中に入って行くわけにもいかない。どうしましょうフランスさん、と助けを求めて振り仰いでみたが、フランスは額に手を当てて「あー…、本題はそっちだったのね……」と独り言を言っている。何のことだろう。
『ひょっとして君は本番もセーシェルと踊るのかい?だったら止めておいた方がいいんだぞ。彼女にだって選ぶ権利がある。君だって皆の前で断られて恥を掻きたくないだろう?』
心配してくれているところ申し訳ないが、イギリスは今回裏方なので踊らないと明言している。アメリカはそれについても何も知らないようだ。
だが、今の発言はイギリスの逆鱗に触れるには充分だった。彼は机からゆっくりと離れると、何を考えているか分からない冷え切った声で「アメリカ」と呼んだ。
『お前こそ、セーシェルだけでなく俺の心配までしてくれるとはお優しいことだ。だがそれはお前には何ら関わりがない。こちらを気にする時間があるんだったら、お前も当日のパートナーのことでも考えるんだな。あぁ、世界の合衆国様は自分から動かなくても周りが放っておかないか。結構なことだ』
『それこそ君には関係ない。余計なお世話だよ!』
冷たく言い放ったイギリスにアメリカが噛みつく勢いで反駁した。フランスはますます「あーあ、あーあ」と溜め息を吐いて何かしら嘆いている。そうこうしているうちに彼等二人はどんどん険悪な雰囲気になっていった。
『そうだな。……話はこれで終わりだアメリカ。納得したなら出ていけ。お前が気遣ってくれたように俺も忙しい』
『そうさせてもらうよ。邪魔したね』
くるりと踵を返したアメリカが扉の方に向かって来る。フランスに促されるまま、セーシェルは急いで死角になる場所に隠れた。
『ああ、言い忘れたが』
ふいにイギリスがアメリカを呼び止めた。怪訝そうに振り返った彼に、イギリスは最後の止めを刺す。
『本音を言えばセーシェルの意思なんてものは俺には関係ない。あいつは生徒会役員で、何より「英国の植民地」なんだからな。他国のお前にどうこう言われる筋合いはねえんだよ』
その言葉がどうしてアメリカを抉ったのかはセーシェルには分からない。だがアメリカは明らかに激しく動揺した様子を見せると、その場を振り切るように後にして乱暴に扉を開けた。そのまま勢いに任せてバタンッ!と叩きつける。そして外に居たセーシェル達には気付かずに、足早に去って行ってしまった。
重い樫の扉がびりびりと振動しているのにセーシェルはしばし呆然とする。アメリカの馬鹿力にも驚いたが、何よりも彼の剣幕自体に相当びっくりしたのだ。イギリスとアメリカとの小さな喧嘩などしょっちゅうだが、ここまで険悪になったのは今まで見たことが無かった。それもどうしてだか原因になった話題の中心人物は自分だった。呆気に取られているセーシェルの側でフランスは「やれやれ」と溜め息を吐くと、セーシェルの肩を軽く叩いた。
「とりあえずお兄さんとおいでセーシェル。どこかで一休みしよう」
「あ、え?……いいんですか?」
思いがけない騒動があったとはいえ、セーシェルもフランスも仕事をしにここへ戻ってきたのだ。中ではイギリスが二人の報告を待っているだろう。
しかしフランスはいいからいいから、とセーシェルをカフェテリアの方へ引っ張って行った。
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