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 放課後の中庭のベンチには、いつも誰かしらが思い思いに腰を掛けている。本を読む者、ヘッドフォンで音楽を聴きながら課題をこなす者、単に待ち合わせをしている者など日によってさまざまだが、今日は女生徒の集団がそこの主のようだった。鈴の音のような声を転がしながら、めいめいに持ち寄ったファッション誌を突き合わせてしきりにああでもないこうでもないと言い合っている。彼女達―――いや、学園中の関心は、開催をとうとう来週に控えたパーティーに集まっていた。若い女の子の関心事など昔から決まり切っている。彼女達は当日に何を着ていくかで専ら頭を悩ませているのだ。時折わっと起こる花の様な笑い声を横目に、セーシェルは足早に吹き抜けになっている渡り廊下を歩いていた。

 学園内では今はどこでも件のパーティーの話題で持ちきりだ。試験が終わると早々に帰国の途に就く生徒もいたが、今回ばかりはそれも流石に少なく、校内は依然として浮足立った活気に満ちていた。例外なのは試験で及第点を取れずに追試を命じられた者達くらいだろう。いつもなら大概一つか二つかは科目を落とすセーシェルもこの追試組の常連なのだが、今回は何故か簡単なレポートを休み明けまでに提出すればいいという温情を掛けてもらった。(裏から教師陣に学園最高権力者の圧力があったことは空気の読める者ならば誰でもわかることである。)

 こうして思いがけず追試から釈放されたセーシェルではあったが、素直に解放感に浸れない理由があった。それは未だ上達の気配を見せないダンスの練習だ。
 フランスに練習の相手をしてもらってから既に一週間、付け焼刃にしては形になり始めているが、それでも人前で踊れるレベルかと言われると正直首を横に振らざるを得ない。今のところなんとかオーストリアの指導の刑は免れているが、気がつけばパーティー本番まであと十日を切ってしまった。朝も昼も夜も、セーシェルを苛むのはダンスダンスダンスのことばかりである。いっそのことボイコットでもしてやれればいいのだが、そうしたが最後、愛する自国があの眉毛生徒会長に侵略されてしまうだろう。それだけは断じて避けなければならない。

 うぅぅ、立ち上がれ植民地、と物騒に呟きながら、セーシェルは適当な空き教室を探していた。
 パーティーが目前に控えているということは、主催である生徒会は当然多忙を極めることになる。生徒会長であるイギリスは言わずもがなであるが、今日は当日の料理のケータリングの件で主担当のフランスも駆り出されているため、自然、セーシェルは自主練習ということになったのだ。本来ならば数少ない人手であるセーシェルも準備に携わって然るべきなのだが、生徒会長はそれよりも彼女のダンスの上達を最優先事項としたようである。どこでもいいから空いている部屋を使っていいとのお達しにより、セーシェルは先程から広い学園内を彷徨っているのだった。

 何しろこの学園、国が通う学校だけあってとにかく無駄に大きく、無駄に豪華な造りをしている。国立の博物館クラスと言っても過言ではない校舎内には膨大な部屋数があるのだが、しかしそのどれもが規模が広すぎる。気後れしてとても一人きりでダンスの稽古なぞしようという気にはなれない。必要なのは本当にささやかなスペースでいいのに、と途方に暮れながら、セーシェルはこれまた無駄に華美な石造りの階段を上っていった。

 すると、階段を上り切ったところで彼女の耳はある旋律を拾った。忘れもしない、それはセーシェルが毎夜夢に見るほど聞き続けているワルツのメロディだ。一体どこから、ときょろきょろ首を巡らせていると、その階にある多目的室の扉が半分空いているのが目に入った。どうやら音はそこから漏れ聞こえているらしい。
 各階に設けられている多目的室は申請さえすれば誰でも使えるようになっている。この階層にある部屋は標準的な教室サイズに造られており、文化部や同好会などからも申請件数が多い。やはり使い勝手の良い広さが人気の理由なのだろう。

 自分と同じようにダンスの練習をしている生徒がいるのかもしれない。セーシェルは扉に近付いて、そうっと中を伺った。
 見ると扉のすぐ側に持ち運びできるタイプのCDプレーヤーがある。所謂オーソドックスなポータブルコンポというやつだ。先刻耳にした音楽が少し旧式のそれから優雅に流れている。これがアメリカや日本あたりだったら携帯電話を使って音楽を再生したりするのだろうが、この学園に通う誰もが彼等の様にハイテク仕様というわけではない。事実セーシェルの様に学園に来て初めてオーディオを触ったような国も沢山いるのだ。よく見ればそのポータブルコンポにも学園の備品であることを示すシールが貼ってあった。隣に置かれた数枚のCDケースにも同様のシールが貼られている。そのジャケットのどれもにセーシェルは見覚えがあった。生徒会室にも同じものが一揃いあるので間違いない。今回のパーティーで使う曲が収録されたクラシック音楽のCDだ。
 やはりこの部屋を借りた生徒はダンスの練習目的でここを使っているのだろう。見ると、部屋の奥で一人の女生徒が姿見で姿勢のチェックをしているところだった。セーシェルから見えるのは後姿だけだが、制服はヨーロッパクラスのものを身につけている。背中の中程まである長い栗色の髪が、彼女が姿勢を変えるたびにふわふわと揺れた。ふと、セーシェルはその女生徒が右耳の上につけている花の髪留めに見覚えがあることに気が付いた。

「なんだ、ハンガリーさんじゃないですか」

 入学当初、学園内にほとんど知り合いのいないセーシェルに声を掛けてくれた女生徒がハンガリーだった。女子寮でも一緒の彼女は何かとセーシェルの相談に乗ってくれる、頼もしいお姉さんのような存在だ。

「きゃっ、やだセーシェルちゃんか、びっくりしちゃった」

 見てたなら声かけてよ恥ずかしいじゃない、とハンガリーは頬を染めた。外から見た通り、どうやら部屋の中に居たのは彼女一人だけのようだ。扉の外に立っていたセーシェルに「よかったら入ってこない?」と言って手招きをしてくれたので、お邪魔じゃないならと、彼女の言葉に甘えることにした。

「セーシェルちゃんは生徒会のお仕事?」

 放課後は大抵生徒会の使い走りで校内を駆け回っているセーシェルである。ハンガリーは鳴りっぱなしだったプレーヤーの音を切ると、パーティーも近いし大変よね、とセーシェルを労わってくれた。

「あー…、いえ、今日はイギリスさんの厳命でこれからダンスの自主練なんです……。そういうハンガリーさんももしかしてダンスの練習ですか?」

 するとハンガリーは先程とは違った意味でうっすらと頬を色づかせた。

「そうなの。ほら、今度のパーティーではダンスの相手は指名制になってるじゃない?オーストリアさんが当日は私を指名してくれるって言うから……。オーストリアさんはすごくダンスが上手な人だから、パートナーを務める私が恥をかかせちゃいけないと思って……」

 いつもは凛としていて頼もしささえ感じるハンガリーだが、ことオーストリアの話になると急に花も恥じらうなんとやら、というやつになる。きっとパーティーでもハンガリーは男性陣から人気の的になることだろう。可愛いなあ、とそんな彼女を微笑ましく思いつつ、ふとセーシェルは先日ドイツが言っていたことを思い出した。

「そういえば、ハンガリーさんはドイツさんのお兄さんって人とも仲が良いんですよね?その人とは踊らないんですか?」

 セーシェルがドイツの兄の名前を出した途端、それまでハンガリーの周りを漂っていたお花のような空気がぴた、と止まった。

「あらやだセーシェルちゃん。そんな奴となんか全然仲良くないわよ。誤解よ。勘違いよ」

 ほほほ、と笑いながらハンガリーは否定したが、右手が何かを掴むようにわきわきと動いている。フランスが目撃したらまず安全圏内へ即刻退避していただろう。鈍い鈍いと言われているセーシェルもさすがに笑いが引き攣った。
 セーシェルが少々引き気味なのに気付いたのか、ハンガリーも不穏な気配を引っ込めて、わざとらしくコホンと咳払いをした。

「ま、まあダンス自体はチャリティーだから、あいつがどうしても、って言うなら一曲くらいは踊ってやらないこともないけど」

「あー…そうですね。是非そうしてあげてください……」

 以前日本が「欧州事情は複雑怪奇です」と言っていたが、セーシェルも時々そう思う。彼等ヨーロッパの国々は仲が良いのだか悪いのだかイマイチよくわからないのだ。(その筆頭が学園ツートップである生徒会長と副会長なのだから推して測るべしである。)

「ところでセーシェルちゃんは一人で練習なの?」

「あ、はい、今日はフランスさんがパーティーで出す料理の打ち合わせとかでどうしても抜けられないんです」

 私こそ練習の邪魔しちゃってすみませんでした、とぺこりと頭を下げて出て行こうとしたが、しかしそんなセーシェルをハンガリーは引き留めた。

「ううん、いいのよ。それよりセーシェルちゃんがよかったらここで一緒に練習しない?」

「え!?いいんですか?」

 普段からセーシェルに優しいハンガリーとならば願ったり叶ったりである。広い校内でこれ以上練習場所を探さなくてもいいし、彼女の申し出はまさに一石二鳥というやつだ。

「うん。実は私も相手待ちをしていたの。今、オーストリアさんが大ホールの方に行ってらしてね、その用事が済んだら踊りを見てもらうことになってるの。もうそろそろ戻って来てもいい頃なんだけど……」

 オーストリアはパーティー会場として設定されている大ホールの音響を全面的に任されている。パーティーの本番では音楽はCDなどではなく本物の楽団を入れることになっているので、その調整は彼に一任されているのだ。セーシェルの記憶では、音響部門は今日のところはまだ簡単な顔合わせのみのはずだった。確かにハンガリーの言うとおり然程時間のかかる作業ではないだろう。
 しかしオーストリアの名前を聞いて、セーシェルは内心焦った。彼に今の自分の惨状を見られたら、イギリスが依頼するまでもなくオーストリアの鬼指導が始まってしまうかもしれない。

「じ、じゃあオーストリアさんが戻ってくるまでの間だけよろしくお願いします」

「あら、遠慮しなくていいのよ?折角だからセーシェルちゃんも一度オーストリアさんに見てもらったら?きっとすごく上手になるわよ」

「いえ、だからそのオーストリアさんの指導とやらをですね、できたら遠慮した…」

「私が何ですって?」

 背後から突然響いてきた声にセーシェルはぴゃっと飛び上がった。対照的にハンガリーは瞳をキラキラさせながら「オーストリアさん」とその声の主を呼ぶ。

「打ち合わせお疲れさまでしたオーストリアさん。少しお時間かかったみたいですが、何か問題でもあったんですか?」

 ハンガリーの言葉に実に貴族的に首を振りながら、オーストリアは部屋の中央へ歩み寄った。

「いえ、打ち合わせはすぐに終わったのですがね、何分ここと大ホールは距離が離れているでしょう?順路も複雑ですし、辿り着くまでに少々時間がかかってしまいました」

「そうだったんですか」

「ええ、まったく校内が広すぎるのも考えものですよ。せめて案内板を置くなりなんなり、生徒会にはもっと改善を求めたいところです」

「はあ……イギリスさんに伝えておきます」

 だが、大ホールとこの多目的室のある階は直通の連絡通路で結ばれているのだ。広大な建物なので確かに距離はあるが、ルートは迷いようもないほど単純なはずである。セーシェルよりずっと長くこの学園にいるオーストリアがそれを知らないとは思えないが、何故か彼は校内で道に迷ってしまったらしい。どうしてだろう。

「そんな訳で待たせてしまいましたね、ハンガリー。早速始めましょうか」

「あ、じゃあ私はこれで……」

 到着早々やる気のオーストリアの意識に留まる前にセーシェルはそそくさと退散しようとしたのだが、「待ってセーシェルちゃん」とハンガリーに呼び止められてしまった。

「オーストリアさん、実はセーシェルちゃんもこれからダンスの練習をするんですって。一人でやるより皆で一緒にやったほうが良いと思ってさっき誘ったんですけれど」

 ねえセーシェルちゃん、とハンガリーはにっこりと笑う。善意に満ち溢れたその笑顔は眩しいくらいだが、セーシェルにとっては今はそれどころではない。

「ででででも私なんかまだ下手くそですし、お二人の足手纏いになるだけですからええええ遠慮させていただきます」

 慌てて顔の前でばたばたと手を振って辞退しようとしたが、オーストリアとそこでバッチリ目が合ってしまった。やばい、とセーシェルの野生の本能が危険を告げる。

「ああ、そういえば貴女がイギリスが言っていたダンス初心者の女生徒ですか」

「は、はいぃぃ、初心者も初心者、めちゃめちゃ初心者なんです。だからここに居てもお二人の邪魔になるだけだと思うんで私は他で練習しますね!一人でもステップのお浚いくらいはできますし!」

 少しずつ後退りながら後方の扉を目指す。あと少しで出口、というところでオーストリアが「お待ちなさい」とぴしゃりと言った。イギリスとは違った意味で命令し慣れている口調だ。条件反射で全身がフリーズしてしまう。

「いいでしょう。良い機会ですから少し踊っていきなさい」

「え、え、でもあの……」

「ハンガリーなら男性パートも踊れますから大丈夫ですよ。では頼みますよ、ハンガリー」

「はい、オーストリアさん」

 ハンガリーさんって男性役もできるんですか、と目をぱちくりさせると「昔ちょっとね」と悪戯っぽい笑みが返って来た。うっかり感心しかけたが、セーシェルははっと我に返る。ハンガリーが相手ならばいつものフランス相手の様に足を踏みつけてしまうわけにはいかない。なんとか回避できないものかと頭を高速で回転させる。

「そ…そうだ!だったらまずお二人の模範演技を見せてください!」

「え?私達の?」

「そうです!素晴らしいお手本を見てイメージトレーニングするのも上達にはすごく大事だと思うんです!」

 我ながら咄嗟に上手い事言った、とセーシェルは自画自賛した。実際はこの二人ではレベルが高すぎてセーシェルの技術ではイメトレも何もあったものではないのだが、それでも彼女の言にも一理あると思ったのか、オーストリアとハンガリーは二人で顔を見合わせている。このまま二人が自分達のダンスに夢中になってくれれば上手く抜けられるかもしれないとセーシェルはこっそりと思った。

「ふむ。それもそうですね。では一度私たちが踊ってみせましょう」

「はい、是非!」

 オーストリアの気が変わらないうちにとセーシェルは即行でプレーヤーの前に立った。オーストリアは「まずはヴィニーズからいきましょう。CDはそれではなくそちらの……そうそう、それの四曲目ですよ」と指示してきた。イギリス同様、やはり人を使うことに慣れている。
 セーシェルがディスクをセットしている間にも、二人は部屋の中央に進んで優雅に一礼を交わした。その何気ない動
作だけで部屋の空気ががらりと変わる。音楽が流れ出すと、文字通り流れるように、二人は踊り出した。

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