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「おやおや、それは災難でしたねぇ」

 どうぞセーシェルさん、と言って冷たいお茶を出してくれた日本を、この時の彼女は本気で神様だと思った。ビキビキと今にも音を立てそうな身体をようやっと起こしてマグカップを受け取ると、セーシェルはそのまま一気にぐいっと飲み干した。その実に野性的な動作にドイツが物言いたげに眉間をしかめたが、それを気にする余力はセーシェルにはもう欠片も残っていなかった。日本もそんな彼女の無作法を咎めたりせずに、もう一杯お代わりを注いでやる。誰の目から見ても同情を誘うほど、セーシェルはぼろぼろに疲れ切っていた。

「それでセーちゃん、今日の練習はもう終わったの?」

 疲れた時は甘い物がいいよー、とイタリアがポケットから出してくれたチョコレートを、これも鷲掴むように掌から攫うと無心で口の中に放り込んだ。イタリアが持っているお菓子の名前はセーシェルには馴染みのないものばかりだが、いつ何を貰ってもびっくりするほど美味しい。今ももごもごと動かしている口の中ではヘーゼルナッツとチョコレートのジャンドゥーヤが素晴らしいハーモニーを奏でているところなのだが、残念ながらそれらは碌に味わわれることなくセーシェルの胃袋へと消えていった。貪り食う、という言葉の実例のような有り様に、見兼ねたドイツがこれで口の周りを拭け、とハンカチを貸してくれた。三者三様の優しさがお代わりのお茶とともに身に沁みる。

「眉毛はもっとやらせたかったみたいですけどね……。フランスさんが先に沈んだんでアウトになりました」

 血液内に糖分が巡り出して一心地ついたセーシェルはそこでようやくふぅ、と息を吐き出した。

 彼女の言う通り、先にバテてしまったのはリード役のフランスの方だった。ひょっとしたら体力的な問題よりも踏まれ蹴られ続けた足の方が限界だったのかもしれないが、とにかくフランスが脱落したことにより、セーシェルも今日のところは放免となったのだった。(代りに明日は朝練と昼練と放課後までみっちりと特訓を申し付けられたが。)
 しかし、慣れないことをしたお陰で抱えた疲労とストレスはセーシェルを野生児に戻すには十分だった。彼女は野生の勘を働かせて、とりあえず一番手っ取り早く休息と空腹を満たすことができるこの漫画研究会の部室に救いを求めて駆け込んだのだった。

 日本、イタリア、ドイツの三人の手厚い介助で回復したセーシェルは、あの眉毛生徒会長がいかに極悪非道で人でなしかを切々と訴えようとしたのだが、それに対して返ってきた反応は彼女にしてみれば予想外のものだった。

「それにしても、慰労会としてダンスパーティーをなさるなんて洒落ているじゃありませんか。いかにもイギリスさんらしいですね」

「え?日本さんはパーティー楽しみなんですか?」

 普段、喜怒哀楽をあまり表に出さない日本だが、その口調からは珍しく浮足立った様子が感じられる。彼は目立つことが苦手だと思っていたので、日本の言葉はセーシェルにとって正直意外だった。
日本は「えぇ、準備は怠っていませんよ」とふふふと笑う。そういえば、今日彼が机の上に広げているのはいつもの原稿ではなく最新型のデジタルカメラだった。それも数台ある。ダンスパーティーの準備に何故デジカメが関係あるのだろう。

 セーシェルが首を捻っていると、隣からイタリアが「俺も俺もー」と話に入ってきた。

「俺もパーティー楽しみにしてるんだー。女の子はみーんなお洒落してくるし、美味しい物も食べられるし。そうそう、料理は立食スタイルでフランス兄ちゃんがプロデュースするんだって!イギリスじゃなくて本当によかったよ〜」

 先程セーシェルに渡したチョコレートを自分でも頬張りながらイタリアは幸せそうに言った。楽しいことと美味しい物と可愛い女の子が大好きな彼にとっては、今回のパーティーはむしろ待ち遠しいものなのかもしれない。

「ダンスや料理も結構だがな、お前達、本来の趣旨を忘れてはいかんぞ。そもそも今回のパーティーの目的はチャリティーなのだからな、出席者は全員奉仕の精神を持って臨むべきだ」

 鹿爪らしく頷きながら付け加えたのはドイツだった。彼はイタリア達とはまた違った意味でパーティーに乗り気のようだ。

 確かに彼等の言う通り、今回予定されている生徒会主催のダンスパーティーには開催するにあたってそれなりにきちんとした理由がある。

 W学園はその立地場所であるアメリカ合衆国の制度にならって、学期編成は二学期制(セメスター制)を採用している。通っている生徒が国という特殊な事情があるので進級や卒業といった概念は曖昧なのだが、この学園では六月の上旬をもって年度末と規定していた。
 スクールシーズンが終われば当然長いサマーホリデーが訪れるのだが、その間学生たちは各々自国へ帰国するケースが殆どだ。次に再会するのは三カ月以上先ということもあり、そこで仲の良い国同士の間では試験から解放された互いの身を祝うべく、あちらこちらで小規模な打ち上げをするのが恒例になっていた。
 そんな風潮がある中で、生徒の中からもっと大勢が参加できる、規模の大きい会を開いてほしいという要望が出て来たのだ。今までは有志レベルでのパーティーだったが、どうせなら学園中の人間が自由に参加できるようなものが良いと。その声は瞬く間に校内に広がり、話は最終的に学園を統括する生徒会に持ち込まれた。
 折しも今年度は四年に一度の冬の体育祭があったり、例年に比べて校外行事や他校との交流会が多い年でもあった。生徒を労うのにちょうど良い機会だと判断した生徒会は、その企画を全面的に取り仕切ることに合意した。W学園のルールとは即ち生徒会長その人である。彼のお墨付きを貰った企画はとんとん拍子に話が進んだ。
 会場は会長権限で学園で一番豪華な大ホールが提供されることになった。すると、せっかく広い空間があるのだから有効活用しないのは勿体無い、との声が上がった。結果、ホールのスペースを二つに仕切って、半分ではビュッフェスタイルで料理を饗し、もう半分をダンス用のボールルームとして使用することが決まった。もともとアメリカ国内でも高校の卒業パーティーにプロムが開催されるのが一般的なので、それに倣おうという趣向だ。
 しかし、正式なダンスを得意とするのは欧米の国が大部分で、それでは参加者全員が楽しみにくい。ならばそれ自体をチャリティーにしてはどうかということになったのだ。パーティーで慈善活動が行われることは欧米ではごく当たり前のことなので、それもすんなり意見が通った。

「ダンス一曲につき、パートナーの指名料をそのまま募金に充てるそうですよ。もとはアメリカさんのところの映画にそういうシーンがあって、それを参考にしたそうですが」

 なんとも粋ですねぇ、と日本はますます感心したように言う。

 そう、本来の正式なダンスパーティーでは、男女ともに事前に固定ペアを組んでから出席するのが普通である。しかし、今回に限ってはダンス参加者は予めそのようなペアを決めておく必要はない。当日会場で一曲ごとに相手を指名して、その場でダンスを申し込むことになっているからだ。
 踊り手は曲が変わるごとに新しくパートナーの指名権を購入しなければならない。続けて同じ相手と踊っても構わないし、曲ごとに替えてもよい。指名料は一曲一律に百ドルと決められているので、つまり何曲踊ったかによって寄付の総額が決まる仕組みになっている。ようは自分が踊った曲数に百ドルを掛け算した金額を寄付すればいいのだ。
 こういう場合、相手を指名するのは立場的に男性の役割になるのだが、欧米の言わば先進国と呼ばれる裕福な国々には圧倒的に男が多いので特に不公平は生じないだろう。勿論、女性からの指名も歓迎されている。(噂によると某北の大国は妹からかなり熱烈なアピールをされているらしく、珍しく憔悴した様子でパーティーまでの日々を怯えて過ごしているらしい。)
 チャリティーという形式なので、ダンス自体への参加は基本的に本人の自由意思となっている。ダンスに参加しない者は純粋に食事と交流を楽しむだけでもオーケーなのだ。


「えぇー…と、つまり、皆さんは三人ともダンスに参加されるんですか?」

 あんな苦行に自ら足を踏み入れるなんて信じ難い、とセーシェルは思っていたのだが、三人はあっさりと肯首した。

「当然の務めだ。本来ならもっと予算を抑えた質素な会にするべきだとは思うが、チャリティーという発想自体は素晴らしいものだからな」

「うん、俺も踊るよー。だって女の子とダンスできるなんて楽しいじゃない。せっかくだからヨーロッパクラス以外の可愛い子とも沢山知り合いになれたらいいなぁ」

「えっ?イタリアさんってダンス踊れるんですか!?」

 驚きのあまりセーシェルはかなり失礼なことを言ってしまったが、イタリアは全然気にせずに「もっちろんだよー。セーちゃんも俺と踊ってね!」と能天気に返してきた。するとドイツさえも「そうだな、俺もお相手願おう」と申し出た。イタリアはともかく、堅物のドイツにとっては見知らぬ女性を誘うよりも顔見知りのセーシェルに声を掛ける方が気が楽だと言う選択なのだろう。ここにフランスがいたら全力で止めただろうが、不幸にも二人はセーシェルのダンスの才能の無さというものを知らなかった。
 ドイツはともかく、セーシェルにしてみればこのお気楽極楽を絵に描いたようなイタリアまでもが何の苦も無くダンスができるということはかなりの衝撃だった。何種類もの複雑なステップに加え、あんな体中の筋肉を酷使するようなものをイタリアがマスターしているとは!すみませんイタリアさん、今まで心の中でさんざんヘタレだなんだのと思っていたことは全部訂正しますごめんなさい、とセーシェルは出会ってから殆ど初めて目の前のラテラーノを尊敬した。

 イタリアとセーシェルのやり取りを微笑ましく見ていた日本が「欧米の方々は皆さんお上手で羨ましいです」とお茶をすすって言った。そういえば日本さんは?とセーシェルが視線を向けると彼もさらりと「僭越ながら私も踊らせていただきますよ」と答えた。

「アジアの中では私などよりむしろ香港さんの方がダンスはお上手なのですけれどね。まぁ、立場というものもありますし、何曲かは参加させていただこうかと」

「え〜、そんなこと言ったって日本も踊るの好きじゃない。俺知ってるよー。夏にはオマツリっていうのがあって、皆でキモノ着て、ジャパニーズドラムに合わせて輪になって踊るんだよね」

「イタリアくん、それとこれとは違いますよ」

「そうだぞイタリア。日本の夏のマツリでは正式にはキモノではなくユカタというものを着るそうだ」

「間違ってはいませんが、ドイツさんも突っ込みどころが微妙に違います」

 日本の文化に疎いセーシェルに三人の会話の内容はよくわからないが、二人に冷静な突っ込みを入れている日本もつまりは踊り手としてダンスに参加するということだ。セーシェルは三人の態度を見て急に焦りが浮かんできた。

「あ、あの、ダンスって皆さんそんなに簡単に出来るもんなんですか?」

 既に何時間と特訓を受けても一向に上達しないセーシェルである。そんないかにも当たり前のように周りが踊れるとなると、自分だけがもの凄く取り残されているようで、今まで感じなかったプレッシャーが背中に伸しかかってきた。

「いいえ、私も当初はそれはそれは大変でしたよ。ましてや私の場合はダンスだけでなく、文化そのものが違いましたからね。装いから作法から……本当にあれには苦労しました……。あのスットコドッコイにゴリ押しされて学園に来たことを後悔すらしたものです。もう一度引きこもって登校拒否に戻ろうかと思ったこともありましたよ」

 最初はセーシェルに同調して労わる様だった日本の口調が、昔の苦労を思い出したのか、後半ではなんだか不穏な気配を漂わせ始めた。遠くを見る目がなんだか死んだ魚の目のように見えるのは気のせいだろうか。

「まぁそんなこんなで色々とありましたが、何事も段々と慣れていくものですよ。私でさえなんとかなったのですからセーシェルさんならきっと大丈夫です」

 もっと自信を持ってください、と日本は励ましてくれた。ドイツも持ち前の訓練指導者ばりの調子で「そうだぞ。最後まで諦めずに努力することが肝心だ」と肩を叩いて応援してくれる。どこぞの横暴眉毛にも見習ってほしいとセーシェルは心底思った。

「そうそう大丈夫だよ。だってセーちゃんはフランス兄ちゃんとイギリスにダンス教えてもらってるんでしょ?きっとすぐ上手になるよー」

「あぁ、あの二人の指導なら心配無いな」

 イタリアとドイツはうんうんと頷きながら保証をしたが、それは彼等が先程までの地獄の特訓風景を見ていないからに違いない。あのフランスが最後はセクハラをする気力もないほど疲れ果てていたと知ったらどうなるだろう。
 しかし、そんなことは預かり知らない三人は口々に指導者が良いから大丈夫だと太鼓判を押してきた。

「フランスさんも大変お上手ですが、何よりイギリスさんに直接ご指導いただけるなんて羨ましい限りです。あの方のダンスは本当に素晴らしいですからねぇ」

 鹿鳴館が忘れられません、と日本はややうっとりと溜め息を吐いた。彼等三人の話によるとイギリスとフランスはどうやら相当の腕前らしい。しかし、セーシェルは彼等の評価に疑問を呈せざるを得なかった。

「あのー…、イギリスさんってそんなに上手いんですか?」

 セーシェルは日本達から次々と饗される茶菓子に遠慮なく手を伸ばす。時期によっては地獄絵図のような慢研も(セーシェルは彼等から「修羅場」という言葉を学んだ)、繁忙期を除けばその活動内容は校内新聞の作成か、こんなふうにお茶を飲みながら雑談していることが大半だ。おまけに世界三大メシウマ国のうち二国が在籍しているので、茶菓子のクオリティが無駄に高い。

「うーん、そうだねぇ。ヴィニーズは流石にオーストリアさんかなぁ、って思うけど、イギリスも負けてないよねえ」

 一体どこにそんなに持ち歩いているのか、今度はビスコッティを齧りながらイタリアがのほほんと言った。ヴィ…なんとかというセーシェルにはよく分からない単語もあって、彼女の目にはなんだかイタリアが今日は妙にすごい人のように見える。

「ブラックプールを御膝元に抱えるだけありますよね。確かドイツさんのところでは姉妹都市提携をされているのでは?」

「あぁ、昔オーストリアにごねられて一緒に競技会を見に行ったが、なかなか見事だったぞ。あれならイギリスが上手いのも頷けるな」

 もともとすごい人達だと思っていた日本とドイツの言っている内容はセーシェルには既に理解の外だったが、とりあえずは三人が三人ともイギリスのダンスの腕前を認めていることは伝わってきた。日本やイタリアはともかく、普段身内でも贔屓というものを殆どしないドイツが褒めるのだから信用できそうな話ではある。

「はー…、そうなんですか……。私はてっきりイギリスさんはあんまり上手じゃないんだとばっかり思ってました」

 意外ですねえ、としみじみ言うと、それまでチョコレートの包み紙で何やらちまちま折っていた日本が(彼は飴やらガムやらの包み紙で小さな鳥や人形を作るのが異常に上手い)その手をぴた、止めると、信じられない、という眼差しでセーシェルをまじまじと見つめてきた。

「な、なんですか?」

 普段はあまりかっちりと視線を合わせて話をしてこない日本の珍しい態度にセーシェルはどぎまぎする。

「あの…まさかと思うのですが、セーシェルさんはイギリスさんが踊られているところをご覧になったことがないのですか?」

「え?」

「だってセーシェルさんはイギリスさんとフランスさんからダンスをご指導いただいているのだと聞きましたよ。模範演技として一度や二度くらいは…」

「え、えぇと、一番最初の練習の時にはフランスさんと、フランスさんの知り合いのモナコさんっていう女の人が踊って見せてくれました。あとはイギリスさんに初心者用のDVDってやつを貰いましたけど」

 フランスと一緒に模範演技を踊って見せてくれた女生徒は、彼と同じ瞳と髪の色をした、でも雰囲気は真逆の真面目そうな眼鏡の女の子だった。フランスは相変わらずニヤけていたが、それでも二人が身に纏っているのがいつもの学園の制服とは思えないくらい優雅で思わず見惚れてしまったのを覚えている。イギリスは隣でそんなセーシェルを見て「お前口が開きっぱなしだぞ」と窘めてきただけだ。その時もそれからも、彼は少なくともセーシェルの前では踊っていない。

「でもさすがに何度かは練習のお相手はしてくださったんでしょう?」

 やや乗り出し気味に尋ねてきた日本に若干とまどいながら、しかしセーシェルは二つにしばった髪を揺らしながら首をふるふると横に振る。するとまさか、と呟いたきり日本は固まってしまった。イタリアとドイツも何故か驚いたような表情をしている。

「練習の時はいつもフランスさんが相手をしてくれるんです。イギリスさんは私とフランスさん  の横でずーっと煩くダメ出しはしてきますけど……」

「ではイギリスさんとは一度も?」

「はい、幸せなことに」

 そうなのだ。ダンスパーティーが決定してからは毎日のように特訓を受けているセーシェルだが、実は今の今まで一度たりともイギリスと組んで踊ったことはなかった。ぎゃあぎゃあと口出しはしてくるが、直接の指導は専らフランス任せにしているので、セーシェルはてっきりイギリスはダンスの知識はあっても実技は不得手ではないかと踏んでいたのだ。実際、先程の放課後練習でフランスがリタイヤした後も彼は自分が代ろうとは言わなかった。

「あの……それってそんなに驚くようなことなんでしょうか?」

 三人の反応に、逆におずおずと聞き返すと、我に返った日本が「ちょっと意外だったもので」と答えた。

「私はてっきりイギリスさんがセーシェルさんを直接教えていらっしゃるのだとばかり思っていたものですから」

 ドイツもイタリアも頷いているあたり、余程イギリスの腕前は買われているのだろう。しかしセーシェルは彼が踊るところを一度も見たことがないし、何より例え練習といえど自分とイギリスが一緒に踊るなんて、セーシェルにとっては想像するだに恐ろしい事である。フランスとどちらがマシかと聞かれると答えに困ってしまうが。

「まあ、自分が上手くても他者への指導もそうだとは限らんからな。他人に教えながら踊ると言うのはイギリス程の巧者でも難しいのかもしれんな」

 いいえドイツさん、あの眉毛はきっと足を踏まれるのが嫌だからフランスさんに押し付けたんですよと内心セーシェルはつっこんだが、意外なことに彼の意見に異を唱えたのは日本だった。

「いえ、イギリスさんには立派な指導実績がおありですよ。あの方は指導者としても大変有能でいらっしゃいます」

 私が保証します、と断言した日本に、セーシェルとドイツは思わず顔を見合わせる。

「え?日本はもしかしてイギリスに教わったことがあるのー?」

 俺だったら怖くて逃げちゃうけどなあ、と言うイタリアに、セーシェルも激しく同意する。しかし日本は残念そうに首を横に振った。

「いいえ、確かに欧米文化に不慣れな当時はイギリスさんにも色々とお世話になりましたが、ダンスに関しては良い先生をご紹介してくださっただけで直接のご指導はいただいておりません。勿論、それだけでも十二分にありがたいと思っておりますが」

「え?じゃあイギリスさんが教えるのが上手だっていうのは?」

「それは私があの方に教わったという生徒さんを存じ上げているからです」

「イギリスさんの…生徒さん、ですか?」

「ええ」

 ふいに日本の周りの温度がすぅっと下がった気がした。何故だろう、口元は笑っているのに、目が先程と同じくやっぱり死んだ魚のように見える。

「私はその生徒さん御本人にお話を伺ったので間違いありません。あの何事にも大雑把でゴーイングマイウェイな若ぞ…いえ、教え子を、あれほどの上級者に仕上げたのですからイギリスさんには感服いたしますよ」

 まったくもって羨ましい、せめてその現場をこの目で是非見たかったです、と更に意味不明なことを日本は呟いている。
 イギリスさんの生徒、果たして誰だろうとセーシェルは首を傾げた。自分と同じ英領の国だろうか。国ではないが例えば香港あたりなら有り得るかもしれない。日本と同じアジアクラスの彼ならばそういった話を日本とする機会もあるだろう。セーシェルと香港は同じ英領という意外にほとんど接点はないが、彼がそうとうマイペースな人物だということは知っている。何より眉毛だし。

「しかし、そうなるとセーシェルさんはイギリスさんとは練習なさってないのですか…。実はカメラテストも兼ねて一度練習の場にお邪魔させていただこうかと思っていたのですよ。正装は当日のお楽しみにするとして、制服姿の練習風景というのもいかにも学園物らしくてオツですからね」

「に、日本さん?」

「イギリスさんのような童顔の方がお召しになってこそブレザーの醍醐味も増すというものです。着崩さずに敢えてきっちりと着ていらっしゃるのも生徒会長的テンプレでいいじゃありませんか!フランスさんがモデルでは失礼ながら制服の魅力が半減してしまいます!」

「はあ……」

 滅多なことでは熱くならない日本だが、時々こうして妙なスイッチが入るとヤツハシとやらをすっかり忘れて自分の世界にのめり込んでしまう。セーシェルが親しくしているハンガリーなどは、何故かそんな日本とも一緒に盛り上がったりしているが、学園に来てからまだ日が浅いセーシェルにはとてもついていけそうにない。

「す、少しは落ち着いたらどうだ、日本。血圧によくないぞ?」

「そ、そうだよ日本!写真撮りたいなら他の誰かにお願いしてみたら?ほ、ほら、オーストリアさんとか!きっとハンガリーさんと練習してると思うよ?」

「そうだ、ハンガリー相手なら兄さんに頼んでみてもいいぞ。あれでいてあの二人は昔からの知り合いだからな」

 微妙に表情を引き攣らせながら、イタリアとドイツも慌てたように日本を宥めにかかった。拳をグーに握りながら制服の神秘について熱く語りかけていた日本だが、二人から提出された代案に「貴族と淑女…。不憫、いえ、不良とその幼馴染…。いいかもしれませんね」と思案顔でノートを取り出し何やらメモをとった。

「イギリスさんの制服姿での練習ショットは諦めますが、その代りに本番の正装はバッチリいただくことにしましょう。パーティーのために今回は本国から動画に強い最新のデジカメを取り寄せましたからね!」

 確かパーティー当日の撮影に関しては、実行委員内に広報部門が設置されているのでそこが担当するはずなのだが…。どうして日本がそこまで写真に拘るのかセーシェルにはいまいち理解できない。校内新聞でパーティーについての特集でも組むのだろうか、と考えたところ、ふとあることを思い出して「あ」と声を上げた。

「どうしたのセーちゃん?」

 興奮気味の日本を宥める為に魔法瓶からお茶を注いでいたイタリアがセーシェルを覗き込んだ。セーシェルも新しいカップに淹れてもらったコーヒーを受け取りながら「いえ、別に大したことじゃないんですけど」と湯気のたつ水面に息を吹きかける。

「パーティーは生徒会の主催ってことになってるんで、イギリスさんは当日は裏方に回るって言ってましたよ。会長なんで挨拶はするけど、ダンスは全部フランスさんに任せるって。だからイギリスさんはパーティーでも踊らないかもしれないです…って、あれ?日本、さん……?」

 セーシェルが言葉を続けるたびに徐々に表情に色を失くしていった日本は最終的にはぴき、と固まってしまった。彼の様子がおかしいと思った次の瞬間、セーシェルは何故か自分の手の中のカップのコーヒーの水面が小刻みに波立ち始めたのに気がついた。はっとしたドイツが「全員、部屋の外に退避!!」と怒鳴るのと、日本の「なんですって!?そんなの聞いてませんよ有り得ません!!!」という悲鳴が重なったのを契機に小柄な日本の体はズモモモと地に響くような音を立てて巨大化し始めた。


 セーシェルの束の間の休息地であったはずの某学園の某漫画研究会。そこの部長に冠せられた二次元マスターの異名は決して伊達ではなかったらしい。あの後、ドイツの必死の説得もあり、日本の巨大化は部室の天井を突き破る前に無事に止めることができた。彼の適切な指示が功を奏した為、幸いにも慢研メンバーの中にケガ人は一人も出なかったということもここに付け加えておく。

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